NO 1547 『教育』は、変わるか?2009.10.19
某週刊誌の取材を受けた。寺脇研さん曰く、「子ども手当てが出ると、受験・進学関係だけでなく、学校以外の学びの場『フリースクール』に行く子どもが増える可能性もある。一度、ジャパンフレネをたずねてみなさい」とのことで、約1時間話をした。
民主党政権に変わったからといって、教育が急に変わるわけではない。急に改善されるわけでもない。政治はいわゆるハードの部分は、いじくれるがソフトの部分まで介入することができない。授業や子どもとの関わりは、マニュアルがあればうまくいくものではなく、多分にセンスの問題が問われてくる。
例えば、教材研究。大多数の教師にとって教材研究とは、「教科書の中身を指導書を使っていかに効率的に教えるか」になっている。だから、指導案を作ったら、いかにその通り授業を進めるのかが問われる。研究授業では、「いやあ、指導案どおりに授業が進み感心しました」などど臆面も無く、指導主事が褒め称える。
授業とは、そんな安直な問題ではない。多様な子ども達の発想を教師がいかに自己の中に取り入れ、どうフィードバックするのかがいつも問われてくる。だから、教材研究とは、「教師がこう教えたいと思っていても、子どもはどう出てくるかわからない。どんな発想にも対応できるような身体を作るトレーニング」でなければならない。イチローの打撃センスも同類の質を持つ。子どもの発想を取り入れ、いかに柔軟な対応ができるか?これは、マニュアルの問題ではなく、『センス』の問題である。
教員免許の更新制を廃し、代わりに教育実習期間を長くしたり、いままでの4年制を大学院も含めた6年制にしても教師の資質=センスを養うことはできない。センスは、教科書をいかに逸脱し、子どもの声に耳を澄ますことができるかにかかっている。これは、長年授業作りにカかわっってきたぼくの体験にもどづいている。徒弟制度の中から生まれてくる『技』や『芸』の世界と言ってもいいだろう。
学校における教師の管理が進み、イエスマンが増えていく教育状況の中、ハードだけでは教育は変わらない。学校には『できることとできないこと』が混在している。十数年前、経済同友会が発表した『合校論』(教科は、母国語・数学・外国語・日本史のみ。その他の教科やクラブ活動は外部と分担する)などの抜本的システム変更とソフトの充実が問われてくる。
教育状況は、簡単には変わらない・・・。