No 1573 流れ流れてばっくれて、いろんな価値観知りました(5) 2010.9.30
PARAT 4 夏の終わり、五日市線で考えた
この夏は仕事がらみで沖縄に2回、北海道にも1回、そして小さい娘を連れてあちこちハイキング・・・。9月に入っても猛暑が続く奥多摩の御岳山から日の出山を縦走し日の出町のつるつる温泉に行った。帰りは、武蔵五日市発の電車で帰る。その、車中でのこと・・・。10人ぐらいの集団が陣取る。最初はバカ話をしていたが30代前半の男性3名がまじめな話に入っていく。どうやら教員らしい。
「差別をどう教えるか考えてるんだ」
「朝鮮人差別とかはどうして起きるんだろう?」
「やっぱり、鎖国とかの影響で他の国のことを良く知らないからじゃない?」
(おいおいおいおい!)
「とにかく、いろいろな事例を出してまず事実を知らせる」
「そうそう、そしてどう思うか考えさせる」
「具体的に差別を無くすにはどうしたらいいかも考えさせなきゃいけないんじゃない?」
「そうだけれど、自分の考えを押し付ける必要は無いと思うな」
「子供同士、討論できればいいよね」
「あれもこれもできないよ。他の授業もあるしさ」
「自分が楽しいと思うことしかできないよ。あれもこれもと授業だけに関われないよ」
「家庭のこともあるしね」
「そうだよね。家庭壊してでもやる必要なんかないよね。家庭が第一」
「とにかく楽しいことなら、頑張れるよね」
と、まあこんな感じの話をしていた。よく覚えているのは、『家庭第一』と『楽しいことならがんばれる』というフレーズが印象的だったから・・・。
ふと、自分の過去を振り返ってみた。
毎日毎日、ガリ版に向かいプリントや学級通信を出していたのは、楽しいからだと思うが、それははたして頑張っていたことになるのだろうか?
ううーん、頑張っちゃいないな・・・。楽しいことが身体化された結果、頑張るなんて認識は存在すらしなくなる。例えば、毎朝、頑張ってトイレに行き、頑張って顔を洗うのだろうか?その行為が身体化された結果、日常行為になったに過ぎない。
楽しいことなら頑張れる?いやいや、そうじゃないだろう。その逆はありうるが、それは何かを犠牲にしなければ獲得できない。何を楽しさとして定義するのか・・・?それこそ価値観の置き所が問われるのだ。
―続く―