NO 1583 対極の行動『直接か?間接か?』(1) 2011.09.13
昨日、じょう君がブルーハーツの『チェルノブイリ』をプレゼンした。紛れも無い反戦歌・・・。同じ反戦歌でも直接的に訴えるものとそうでないものがある。我が友人故高田渡は後者に当てはまる。ラングストン・ヒューズの詩(訳 木島 治)を歌っている。
"Little Old Letter" Langston Hughes
It was yesterday morning
I looked in my box for mail.
The letter that I found there
Made meturn right pale.
Just a little old letter,
Wasn't even one page long--
But it made me wish
I was in my grave and gone.
I turned it over,
Not a word writ on the back.
I never felt so lonesome
Since I was born black.
Just a pencil and paper,
You don't need no gun nor knife--
A little old letter
Can take a person's life.
「おなじみの短い手紙」木島始訳
昨日の朝 ぼくはみつけた
郵便箱のなかの手紙
ただの短いおなじみの手紙は
一ページのながさにも足りなんだ
あいつはぼくに 墓に入ったほうが
死んだほうがいいと 内緒話
裏をみた なにも書いてない
ただの短い おなじみの手紙
ただの鉛筆と 紙だけで
ピストルやナイフは なにもいらない
ただの短い おなじみの手紙が
ぼくの命をとってしまう
君の命をとってしまう
長いものに巻かれず、自己のアイデンティティーを守るのは、並大抵のことではない・・・。最近書いたぼくの文章を反戦歌にダブらせ、何回かに分けて紹介しよう。
プロローグ
学校とフリースクールは、違う。 学校とフリースクールは、そのポリシー(方針・考え方)とメソッド(方法)において根本的に違う。教育基本法の第1条に書いてある通り、学校における教育は「国民を育成する」ことを目的にしている。つまりこれは国家の論理だ。
※ 教育基本法第一条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
フリースクールは国家の論理に乗ることを拒否する。学校はどんなに麗しいことをいっても「子どもを型にはめる」ということから逃れることはできない。そのために公教育では綿密なカリキュラムが敷かれ、各学年の到達目標を設定していく。
その年齢でそのレベルまで到達しなければその子は「おちこぼれ」というレッテルを貼られる。フリースクールは一人一人の子どもの興味や関心をベースにそれぞれのカリキュラムを作っていきく。フリースクールと学校はその意味で、本質を異にする。
公教育では「個別教育」はできるが、「個性教育」はできない。社会適応は、学校の宿命である。いわゆる「読み書きソロバン」と人とのつきあい方、そして日常生活の基本を何らかの形で"たたき込む"場が学校であると言ってもいい。そのたたき込み方をどんなにオブラートに包もうとも、子どもにとって学校は押しつけられた存在であるに違いない。
ただし、そういうことを学校で「教育される」ことと、子どもが自ら「学習する」こととは別の問題である。学校がいくら教育しようとしても、子どもの学びたいこと、興味を持つことは別物である可能性が大きい。
今の学校は、その二つを同時に進行させようとすることに問題がある。「教育」は国家の論理に、「学習(学び)」は個人の論理に立つ、相矛盾した概念だ。
拙著「算数のできる子どもを育てる」(講談社現代新書)から引用
(続く)