NO 1600 村田さんとぼくのこと(3) 2012.01.25
昨夜は村田さんのお通夜・・・。一人しみじみ弔い酒・・・。
1970年に村田さんと出会った後、再び出会うまで約10年の空白がある。1981年、再び名古屋で出会うまで、伏線としてぼくの生き様を前回に引き続き、書いていきたい。
------------------------------
72年、大学をドロップアウトし、その年は関西の共同体をあちこち訪ね、放浪していた。ヤマギシ会が一番長かった。当時のヤマギシ会は学生運動を経て大学をドロップアウトした連中がごろごろ・・・。ひたすらユートピアを夢見ていた。お金が無くて、伊賀上野の街を歩いていた時、煙草を拾って吸っていた。土方仕事をしている時の昼休み、たたき上げの現場監督に怒鳴られた。「お前ら!何考えてんだ!せっかく大学に入ったのに土方なんかして!親父やお袋、泣いてるぞ!」説教されて諭されて・・・。今でも覚えている会社名は、大同建設・・・。
この頃知り合ったのは、非暴力運動や海外に学校を作る運動をしている阿木幸男さん。まだ、早稲田の学生だった。近鉄奈良の駅前で近鉄資本を批判する即興芝居を一緒に演じたり、ワークショップを作ったりした。フォークの神様岡林信康にも会いに行った。
諭されたわけではないが、「ユートピアを夢見ているだけでは、ユートピアは近づいてこない」そのことだけは、理解した。関西で学んだこと・・・、「腹を立てない。感情的にならない。事態を客観的に見て具体的な解決策をとる」1
1972年の秋、関西から東京に戻った。かつてアルバイトをしていた浅草・合羽橋の紙問屋に拾ってもらった。関西で知り合った女性と結婚し、大田区糀谷あたりの四畳半に転がり込んだ。翌73年4月、長女誕生。当時の給料、手取り8万円。教員の初任給6万円の時代だ。
村田さんは、『学級通信ガリバー』に続く実践『このゆびとまれ』を発表する時期に来ていた。同時に政治的課題としての教育では『無援の前線』(社会評論社)、『闇への越境』(田畑書店)も続々と出版される。
この時期、ほるぷ出版の入社試験に合格したが断り、教育には一線を引き深く静かに潜行していたが村田さんの本だけは、読んでいた。
(続く)