NO 1602 村田さんとぼくのこと(5) 2012.01.30
1974年、ぼくは、大学に学士編入・・・。『ひと』誌を発行している太郎次郎社でアルバイトをしたことがきっかけで、教員になることを決意した。とは言っても、相変わらず肩肘張った生き方だった・・・。
この間村田さんは、次の本を上梓している。
『飛び出せチビッコ―ガリバー先生と子どもの対話』(エール出版 1970)
『戦後教育論』(社会評論社 1970)
『無援の前線』』(社会評論社 1972)
『闇への越境』(田畑書店 1973)
『学級通信ガリバー』(社会評論社 1974)
『飛び出せチビッコ―ガリバー先生と子どもの対話』=『学級通信ガリバー』
つまり、同内容・・・。前者は活字、後者はガリ版刷りそのままの体裁である。そして、前者は絶版になっている。前者は、村田さん自らが絶版にしているが、それには次のような理由がある。
『結局。ぼくたちは、教科書、通信票、時間割といったような教育部落のもろもろの約束ごとから自分を自由にするという「否定的媒介」を通してはじめて、「発達」の問題にまともに向き合うことができるのだ』(『飛び出せチビッコ』p18下段 傍線木幡)
傍線『教育部落』という文言を関西部落研から指摘され、潔く自己批判しての絶版である。その詳細は『学級通信ガリバー』p20~22を参照していただきたい。
(続く)