NO1606 村田さんとぼくのこと(9) 2012.02.21
インフルエンザでスペース閉鎖・・・。ブログ更新をしばらく怠っていました。もう少し、村田さんとぼくのことを書いていきます。
【1976年~1979年】 その3
● 自己評価による評価表
約1000人規模の小学校。教員の数は30人弱。市販テストを使わない教員は、ぼく一人だった。教科書を使わない教員もぼく一人だった。そのことの理由を学級通信で具体的実戦をもとに説明し、保護者の了解を取っていた。しかし、公簿関係はどうしようもない。
当時の指導要録、および通信簿は五段階の相対評価。いくら努力しても五段階のパーセンテージは変わらない。そもそもこういう評価自体意味があることなのか?学んだ内容をどれだけ理解し、自分自身どう把握しているかがわかればいい。そこでぼくのクラスでは、学んだ内容を全教科箇条書きにし、自己評価する『評価表』を作成することにした。これも、村田さんの教えの一つだ。
通信簿と相対評価の意味を子どもや保護者に説明し、どうどうと評価表を出した。子ども達は、通信簿より『評価表』を重要視してくれたのは、言うまでもない。ただ、40名の子ども達の評価表を読むのは、大変だった・・・。
● 君が代・日の丸
当時の埼玉県教職員組合は、日教組の反主流派がヘゲモニーを取っていて、組合の組織率は60パーセントぐらいだったと思う。毎年1月ごろの職員会議でもめるのは、『君が代・日の丸』問題・・・。
卒業式で歌う、歌わない、。掲揚する、しない。反対意見を述べるのは、ぼくと、組合の分会長だけ。五時も過ぎると時計をちらちら覗き、おばさん教員が言う。「もういいんじゃないですか?多数決で決めてください」そして、圧倒的多数に押し切られる。普段口数が少なくおとなしい教員が『君が代・日の丸』反対に挙手している姿に意外性を見た。
教室では、何故『君が代・日の丸』問題なのか、きちんと説明し、「歌う歌わないは自分の意志で決めてね」と子ども達に話した。式当日、「君が代、斉唱!起立!」に対し、一人後ろ向きの体勢をを取っていた。変な教員と思われていたに違いない。「先生、私、口パクだけ。歌わなかったよ」大多数の子どもがこう言った。今なら、当然、懲戒の対象になっていただろう・・・。
とにかく、学校の全てにつっかかり、とんがっていた・・・。村田さんの『国民教育論批判』と『学級通信がリバー』をバイブルにして・・・。
(続く)