NO1608 村田さんとぼくのこと(11) 2012.02.24
【1976~1979】その4
● 公立小学校教師群像
岩槻市(現さいたま市岩槻区)の新設校に赴任した年の夏休み、北海道網走市の教育委員会から「空きが出たので網走に来ませんか?」と連絡あり・・・。田舎(北海道北見市)に帰る気持ちはあったが、遅すぎた。以来、3年間、岩槻市の公立小学校に勤務する。
夏休み明け、「いやあ、教材研究、あまりできませんでしたよ」と教務主任に言うと、ワンテンポ遅れて「・・・そんなもん、誰もやってないよ・・・」
唖然・・・、愕然・・・。言葉を失った。
そういえば、四十半ばの男性教員の授業を廊下からのぞいたことがあった。
「おい!この問題できるか?○○、やってみろ!」
できる子に問題を解かせ、「よし!みんなわかったか!次!」
これなら、教材研究なんか必要ない・・・。
子どもから集めた教材費の清算に教材屋が職員室にやってきた。
「えーと、全部でいくらいくらだから・・・。はい、これだけね。先生」
教材屋が三千何がしかのお金をぼくに握らせた。
「何ですか?これ?」
「・・・・・・」教材屋、???の顔。
隣にいた学年主任、「いいからもらっておきなさい。子どものために使えばいいんだから・・・」
唖然・・・、愕然・・・。これがリベートか!これがバックマージンか!使わなくてもいい市販テストや量販店より高い文具類を購入し、その何パーセントかをバックさせる・・・。
「わかりました。この金額で買えるだけのわら半紙を下さい」
目が点になる教材屋、そして周りの教員・・・。
ベテラン教員が算数の研究授業をやることになった。単元は、「重さ」。
その研究会でのこと・・・。
「重さなんてのは、まあ、要するにハカリの目盛りが読めればいいんだから」と授業者。
「それ、違うんじゃないですか?」
ぼくの一言で十数秒の沈黙・・・。白々とした空気が流れる。
職員室に子どもがやってきた。
「おい、○○。おまえ、まだこれやってるのか?」
ベテラン女性教員が両手の指を折りながら笑っている。
あとで聞くと、その子は算数が苦手で、指を使って足し算していたそうだ。
3年4年と持ち上がり、ぼくは再び4年の担任になった。二年間持ち上がった子ども達が休み時間にぼくの教室にやってくる。
「○○先生、ひどいんだよ。木幡クラスだったやつ手をあげろって言って、立たせて、ひどいこと言うんだよ」
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い・・・。ぼくに反論できないから、子ども達にあたるという訳だ。
ぼくはそれまで村田さんの『学級通信ガリバー』のスタイルを踏襲し、週1回の学級通信を出していた。しかし、『ガリバー』のベースになっているだろう村田さんの授業そのものが見えてこない。具体的にどのような実戦をしているのかが見えてこない。そこが不満だった。ならば、ぼくは授業そのものが見える、授業を通して子どもの姿が見える学級通信を作るべく、日刊『はちのすfamily』を出すことにする。
(続く)