NO1609 村田さんとぼくのこと(12) 2012.02.27
【1976~1979】その5
● 学び・・・、そして限界
岩槻市(現さいたま市岩槻区)の公立小学校には3年間いた。その間、教科書は使わず自主教材。算数は、数教協の実戦。国語は、児言研や教科研国語部会。理科は仮説実験。社会科は社会科の授業を作る会の実戦など・・・。学級通信を毎日出し、授業内容を保護者に伝えた。
数教協の研究会を定期的に行い、各地の研究会にも参加した。大鰐ひと塾、榛名ひと塾、高野山で行なわれた関西ひと塾、蒲郡で開かれた仮説の研究会・・・。忘れられないのは、銀座の泰明小学校で行なわれた師匠遠山啓先生の授業研究会。割り算の授業を自ら行い、常に新しい方向性を示唆していた。また、ぼくら若者にもよく声をかけ、励ましてくれた。
当時まだ20代だったぼくは、『若者ひと塾』を組織することになるが、わざわざ話をしに来てくれたこともある。「受験路線という鉄板で囲まれた道・・・、誰もそれを倒そうとしない。でも、ちょっと押してみると簡単に倒れるかもしれないんだよ。それをやるのは、木幡君、君達若者なんだよ」
また、「教師は、受験に加担してはいけない」ことも常々話してくれた。これもぼくの中に生きている。
『ひと』誌に書いた『面積屋敷のたんけん』が話題になり、様々な原稿依頼が来るようになっていた。学級通信で授業内容を常に記録していたので、原稿はいつでも書けた。『銀河鉄道の旅』(メルヘンで考える概数)や『一つの花』(戦争を考える)で少しずつ新境地を開拓していった。『一つの花』では単なる読みを超え、実際にすいとんを作って食べたりしたが、美味しくできすぎそのことが産経新聞のコラムに紹介されたりした。この時原稿を依頼された月刊総合誌『公評』にはに以来35年間原稿を書き続けている。
公立学校での三年間は人生で一番学んだ時期だと確信している。しかし、学校の中では学ぶことは少なかった・・・。
ここでも書いているが、反面教師としての学びしかなかった。中元や歳暮が送られてきたことを朝のHRで子ども達に話す教師、修学旅行では酒や肴を旅館に強要する教師、赤本片手に授業する教師・・・、何より憤慨したことは木幡クラスであったことを子どもへの恫喝の道具にする教師がいたことだ。
三年間で公立学校の限界を感じていた・・・。村田さんも同じ時期そのことを考えていたのかもしれない。彼が、退職するのは、この数年後のことだ。
(続く)