NO1619村田さんとぼくのこと(23) 2012.04.01
久しぶりに書きます。会計処理だとか、4月以降の方針とか・・・、あれこれ考えているうちに1週間過ぎてしまいました。本日、4月1日(日)、『村田栄一を語る会』が表参道で開かれます。
【1982年から1985年】 その4 『フレネ教育者国際集会』(1984 ルーバン)(2)
1984年7月20日から30日までベルギーのルーバンで開催された『フレネ教育者国際集会』に初めて参加した。前回トリノで開催された会には、村田さんが参加している。今回は、日本人として2回目の参加になる。参加者は、村田栄一、里見実(当時國學院大學教授)、木幡寛(当時明星学園小中学校教諭)と通訳の佐伯正子さん。
パリから電車でブリュッセルへ。そこからさらに30分で古い大学町ルーバンに着く。ヨーロッパの大学のドミトリーは、夏休み期間中は、さまざまな研究会のため、完全にオープンにされている。この期間、寮生は部屋の私物を一切持ち帰らなければならない。発表の準備のため、数日間をパリで費やしたぼく達が到着した時、会議はすでに始まっていた。
大会議場で話されていた内容は、『平和教育』。パレスチナ難民の子どもを引き受けているチュニジアの教師は、子ども達が描く戦争の絵をスライドで写しながら、想像力の重要性を訴えていた。
※ この会議の内容の詳細は、『授業からの解放』村田栄一(雲母書房) Ⅲ暴力を育てる教育(p76からp81)を参照。
『村田栄一を語る会』へ行く時間が来てしまった。この『平和教育』で知り合ったチュニジアの教師エディア・サイドのことを書いておこう。
『ぼくとフレネ教育とエディア・サイド』
今から28年前の1984年7月、ベルギーのルーバンで開催された<フレネ教育者国際集会>に初めて参加した。日本人の参加は1992年のトリノ集会(イタリア)以来2回目。
この時、話題になっていたのは『平和教育』・・・。北アフリカの教師は、パレスチナ難民の子ども達を自国に引き取り、その子ども達が描いた戦争の絵を提示し、戦争の現実をリアルに提示しなければならないと発言していた。それに対し、ヨーロッパの教師達は、子どもにとって必要なファンタスティックな世界や学力の必要性を論じていた。
堂々巡りの中、ぼくが発言した。東洋からの参加者がいきなり不可解な言語で話し始めたので、注目の的・・・。今考えると、とても青臭いのだが、「何故戦争が起きるのか、その原因を考える。身近な日常とは異なる世界があることを想像する」そんなことを話した記憶がある。
『平和教育』の分科会が終了した後、浅黒い肌で小柄な女性がぼくにフランス語で話しかけてきた。フランス語が話せないぼくと日本語が理解できないその女性は、片言の英語でコミュニケーションした。「遠い日本から来た教師が戦争の現実を理解してくれたことに感謝した」と話してくれた。
彼女の名前は、エディア・サイド・・・。旧フランスの植民地だったチュニジア(北アフリカ、アルジェリアとリビアにはさまれている)の中部、スフールという町の近くで小学校の教師をしている20代の女性。まだまだ貧しいチュニジアの現実、パレスチナ難民の話、低レベルの識字率や就学率、しかし、子ども達の表情はとても明るい・・・、「それだけが救いよ」彼女は真剣に話してくれた。
1週間続く集会の中で同じチュニジアの教師を紹介してくれたり、一緒に食事やダンスをしたり・・・、それはそれは充実した時をすごした。ぼくにとって初めて知り合った異国の女性だった。
集会最後の日、ぼくは彼女に『雪』の写真集をプレゼントした。
「!!!私は一度も雪を見たことがない。こども達に雪の写真を見せて、何と説明しようか?機会があれば、一度日本に行ってみたい」
2年後フィンランドでの集会に参加した友人にエディア・サイドの消息を聞いた。彼女は結婚し一児の子どもに恵まれたとのこと・・・。その後、ブラジル・スェーデン・ポーランドでの集会に参加したがチュニジアからの参加者はいなかった。1998年日本で、念願の<フレネ教育者国際集会>を開催することができたが、この時もチュニジアからの参加者はいなかった。
エディアは、砂漠の満天の星のもと、今もぼくが手渡した写真集を見ているだろうか?遠い日本という国のことを子供達に話しているだろうか?
フレネ教育を考える時、いつもこの思い出が浮かんでくる・・・。
(続く)