NO1620 村田さんとぼくのこと(24) 2012.04.02
【1982年から1985年】 その5 『フレネ教育者国際集会』(1984 ルーバン(3)
そもそもフレネ教育は、伝統的な教え主義から脱皮するところから出発している。故に、知識の伝達・調教・条件付けを拒否する。カリキュラムも個に応じて構わない。少人数で行なうフレネ教育と大人数の中でいかに力学的にダイナミックに子どもに教えるかを追求してきた日本の民間教育とは、全く異質だ。明星学園での実践を発表し、それがどこまでフレネ派の教師に通じるのか疑問でもあり、不安でもあった。
ぼくたちが用意した『羊たちの季節』(日本の管理体制のすさまじさを映像化した番組。学校における号令、服装・頭髪検査・・・)を見た欧米・アフリカの教師達は、その映像からファシズムをイメージし、「どうして日本ではファシズムが復活したのか?」という質問もでてきた。同時に学生食堂の一角に我がクラスの子ども達の絵や作文、写真にノート、水道方式のパンフレット(英文と仏文)なども展示し、ぼくがスライドを提示しながら実践報告を行なった。このことに関し、村田栄一は次のように述べている。
(前略)特に今回は明星学園の木幡寛が加わっていたこともあって、かれが教室で試みたさまざまな実践例、たとえば、タイルを使って一億という量を可視的にした実験や(中略)ゴリラの手形から人間の手の働きに着目させ、そこから実際に鉄を鍛え、ナイフを作り、木を削ってみる作業などを、スライドを使って次々に紹介することができた。これらの実践例は、各国の教師たちにとってたいへん刺激的であったようだ。(中略)教材の選択や、使い方に工夫をこらし、こどもの活動をよく組織し、管理に負けない力量を発揮することができるならば、「多人数、同一年齢」という条件を有利に生かしえることを示した。(中略)フレネ教育に学ばなければならない点がたくさんあるにしても、日本の教師たちが民間教育運動の中で蓄積した豊かな実践例と、そこから生み出した理論は、また違った角度から世界の教師たちに多くの示唆を与えるものであることに、我々はもっと自身を持ってよいと思う。(後略)
『授業からの解放―フレネ教育運動の試み』村田栄一(1994 雲母書房p84~p86)
【閑話休題】『村田栄一を語る会』2012.04.01(1)
表参道のホテルに200名以上を集めて『村田栄一を語る会』が行なわれた。村田さんの人となりや教師以前の大学時代の活動など、初めて知ることができた。1960年代後半から1970年代前半にかけて『教育労働者』(前進社)にペンネームで執筆していた関係もあり、教師以前の活動について村田さんはあまり語らなかった。
第1部は加藤彰彦さん(ペンネーム野本三吉 沖縄大学学長)と里見実さん(國學院大學名誉教授 フレイレ研究の第一人者 フレネの国際集会ではなんども同行)による、村田栄一の仕事の意味、その系譜の説明。参加者の中から村田さんの疎開時代の同級生の発言も・・・。
「疎開っ子ていじめられるんだけれど、村田君はそういうことなかったなあ。物資が少ない時代でもお菓子の類を持っていたり、野球雑誌をただ一人毎月とっていたところから見ると、裕福な家庭の子だったかもしれない」
「運動が苦手だったけれど、野球雑誌のなかからデータをしっかりとって解説したりしていた。理論家だったから、仲間はずれにならなかったなあ。女の子にももてたよなあ」
「修学旅行で鎌倉に行くんで、ぼくなんか有頂天になっていた時、村田君がこう言うんだ。『この中で修学旅行に行けないやつがいるんだよね・・・』びっくりした。ぼくなんか、そんなこと思いもしなかった」
「国語の先生に影響を受けたのかも知れないなあ。何言ってんだかさっぱりわからなかったけれど、今考えると左翼的な考えの教師・・・」
「餅を食べるとき、マーガリンではなく純正のバターを塗って食べるって言うんだよ。それをご馳走してもらったら、口の中が拒否反応を起こして、吐き出してしまった」
「自治会をいろいろと引っ張っていた村田君、学校は都会って考えていたのかもしれないけれど、『おれ横浜にもどるから』って、突然いなくなった時は大ショック・・・」
「その後、『鶴見高校と法政大学付属に合格して、どっちに行こうか迷っている』って手紙が来たんだけれど、さすが都会だなあって、うらやましくなったなあ・・・」
(続く)