NO1623 村田さんとぼくのこと(27) 2012.04.16
【1982年から1985年】 その8
この間、勤務していた明星学園で内部進学問題が起きた。小中高一貫教育だったはずの明星・・・。しかし、高校側から内部進学テストを行い、成績の悪い生徒は高校に進学させないという所謂足きり問題が提示され、学園内は揺れに揺れた。戦後民間教育をベースに理想の教育を求めていた小中学校校長遠藤豊は、新たな学校づくりを模索し始め、ぼくも行動を共にする。こうして、1985年4月、埼玉県飯能市に自由の森学園が誕生する。フォークの鬼才と言われた故高田渡と吉祥寺のハモニカ横丁で飲んだくれていたのもこのころだ。
ぼくは数学教育協議会、若ものひと塾、ひと塾、遠山塾、そして教育芸能集団に関わっていた。
「授業は芸だ!ためになるほどつまらないことをやめ、人間いやになっちゃうほど楽しいことをやろう!」と豪語していた。1984年の数教協全国委員会での席上、組織論を話してくれと言われたぼくは、「今の数教協は、重箱の隅をつつくようなことばかり議論している。原点に戻り、楽しい授業の構造を明確にしなければならない」とやったものだから、「組織の中央にいる常任幹事がそういうことをいうべきではない」と、非難ごうごう・・・。翌年には常任幹事をおろされてしまった。組織とは、こういうものだと身をもって知った。
村田さんには、遠山塾で『教室をびっくり箱に』という連続講座をお願いした。すでに書いているが、エディターシップの意味、断片を集めて構造・文脈をつくり、それぞれの断片を意味あるものにしていくという現在のぼくの基盤はここから生まれたと思っている。この当時、そんなことには、全く気づいていなかったが・・・。
こんなこともあった。日本版BTを作ろうと村田さんと計画をたてたことがある。
※ (「B.T」とは Bibliotheque de Travail(仏)の略でフレネ教育における子どもの手作り学習材をさす。例えば風車の仕組みを子ども自ら取材し、ブックレットにするなどして国際的交流をしている。
太郎次郎社が資金を出し、フランスから数百冊(いや千冊単位だったかも知れない)のBTを取り寄せ、本格的な検討に入った。ジャガイモをベースに、ジャガイモの花と実、ポテト料理など北海道まで取材に行ってBTのモデルを作り始めた。提案&執筆がぼく。ある程度原稿を書き溜めた段階で検討し、出版する手はずだった。が、実現しなかった・・・。90パーセントできていた原稿をぼくが電車の中に置き忘れてしまったのだ。村田さんのあきれた顔・・・。日本におけるBT計画は、あえなく頓挫してしまった・・・。
とにかく、つかず離れず、村田さんとの関係は持続していった。
随分長く書いてきたが、1985年以降は幾つかのフレネ教育者国際集会と自由の森学園との関わりを簡単に述べ、あと数回でこの稿うを終了にしたい。
(続く)