デイリーフレネ

NO1626 村田さんとぼくのこと(30) 2012.05 .09

実は、この稿すでに書き上がって終了していたのだが、保存に失敗し全てオジャン!嗚呼無常!ということでやる気をなくしてました。一念発起し、書き直しています。

【1985年から1999年】(3) フレネ教育国際集会(3)

● ヘマーバン(1994 スェーデン)

この国際集会は、帰路南米による予定だったのでロス→DCワシントン→アムス経由ストックフォルムのエアーを取ったのだが・・・、アムスで疲れすぎてダウン。ほうほうのていでストックフォルムへ。スェーデンのフレネ関係者が、そこからさらにエアー、そしてバスというのでその通りのルートを選んだのだが・・・。エアーで1時間、バスで6時間・・・。地図を良く見たら、ノルウェイ国境に近いじゃないか!スェーデン人のプライドでノルウェイから入れとは言えなかったんだ。

 

ヘマーバンは往年のアルペン選手ステンマルクの出身地。7月末なのにみぞれが振るのには驚いた。北極に近いので白夜。真夜中12時でも白々としている。ここの国民宿舎のようなところで集会が行なわ れた。ぼくは、数学の分科会に参加(総参加者数は300人くらいか)。日本における水道方式や球面の幾何の授業を発表した。興味深いことが一つ。フランスの教師は、量の理論による十進構造のタイルを評価しつつもこう言った。「なるほど十進構造を教えるための有効な教具だ。でも、ぼくならそうしない」

 

一方的に教え込むのならタイルは有効だろう。しかし、教師が知識を一方的に教え込むのはいかがなものかと言っているのだ。彼は、こうするという。

※ 七日で1週間のように数が幾つか集まると次のステップになるようなものを見つける。

※ それらを発表する。

※ 1週間、1ダース、1時間、1日、1ヶ月・・・

※ 上記の過程から数字の10の意味を発見していく。

 

いきなり十進構造を教えるのではなく、日常にある様々な構造の中の一つとして捉えるという数の導入は、とても新鮮だった。これはやはりフレネの教師と直接対話したからこそ獲得した概念だと思っている。やはり、自分の実践を持ち寄り発表しなければ意味無いのだ。このことを痛感した。博物館見学のように学校訪問するのは、全くダメである。

 

 クラクフ(1996 ポーランド)

この年、ぼくはいきなり自由の森学園高校の校長に・・・。「やりたくない」と固辞したのだが、「校長はあなたしかいない」と説得され、しぶしぶ三代目校長を了承した(この時点で創立者の遠藤豊は、経営の責任をとってリタイアしていた)。校長を引き受ける際、次のことだけ、教職員に要望した。

「状況を見て様々な実践上の提案していくので、それをよく聴いてほしい。そして、果敢に実践してほしい」校長の仕事は、よりよき実践のための提案である。橋下市長のようでは、困るが・・・。

 

校長になってすぐ村田さんに会った。自由の森学園を会場に村田さんの念願だったフレネ教育者国際集会を行なうことを提案。『いつ、どこで、だれが、どのように』の「どこで』を校長在任中に決めておきたかった。村田さんは、もちろん大賛成。自由の森学園教職員会議で開催を確認し、後はこの年にポーランドのクラクフで行なわれる国際集会で承認されれば、正式決定となる。会議の支援者が渡航のために寄付を申し出てくれたので、この会議には自由の森学園の教職員4名を引き連れて参加した。村田さんは会議終了後ツアーを組んであちこち回るのでこの頃は、会終了後全くの別行動となっていた。

 

※ クラクフはナチスドイツの本部が置かれていたので戦災にあっていない。日本の京都のような古都をイメージしてほしい。トラムが走り、落ち着いた素敵な街だった。オイシェンチム(ドイツ名 アウシュビッツ)もすぐ近くだ。ぼくは、帰路、チェコ→ハンガリー→オーストリアを回り、モスクワ経由で帰ってきた。

 

国際集会の総会で次回1998年のフレネ教育者国際集会が日本に正式決定!思わず村田さんと握手!期待と不安が入り混じる瞬間だった。

 

 埼玉・飯能(1998年 自由の森学園)

1996年~1998年7月末の国際集会開催まで、何度会議を行なったことだろう。役割分担をしてそれぞれの仕事をこなしていく。ぼくと村田さんは対外的な折衝および全体の流れの把握がおもな仕事だった。文部省や埼玉県、飯能市などに後援・協力の冠をもらうための折衝。会場や宿舎となる寮の折衝や調節。あっという間の2年間だった。自由の森学園の教職員は、それぞれの自主意思での参加となっていた。教職員の歩調は整えられていたとは言いがたい。内部では自由教育ゆえのいろいろな問題が噴出し、ぼくは学校にプライドを持てなくなっていた。

※ 校長時代、ブラジルの集会で知り合った大山・マーラ・レジーナが研修のため来日。自由の森学園で授業をしてもらったり、交流したのが印象的だった。それ以来、マーラとはあっていない。ジャパンフレネオープン後、マーラのお母さんが来日し、元気に過ごしていることを伝え聞いた。

 

国際集会の参加者は300名以上30カ国超。遠くはブラジルやアフリカからも。メインテーマは『学びの地平を拓こう』。会議では10日間学校に詰め、保健室に宿泊していた。あちこち巡回し、何か不都合がないかを常にチェック。完全に裏方に徹し、分科会には、全く参加できなかった。今、当時のフォトを見てみると染織をはじめ民舞や太鼓など日本独特の分科会、また、茶や盆踊り、名栗川への遠足、ダンスパーティーなど楽しいことがたくさんあったようだ。裏方ゆえに全く記憶にないのが悲しい。村田さんは、どうだったのだろう?会議最終日、海外からの参加者は広島への旅・・・。村田さんが添乗し、ぼくは後片付けの統括。そして国際集会後の8月12日、ぼくは退職届を理事長に郵送した。

 

1998年の夏は、こうして終わった。

                                               (続く 次回、最終回)

 

 

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