NO 1658 号泣で変えろ!己の人生観・・・(2)
号泣で変えろ!己の人生観・・・(2)
―『男はつらいよ』&『北の国から』
Part1 号泣(1)―予定調和と想像力
『男はつらいよ』全48巻を観て、何故、榊原るみがマドンナ役の『奮闘編』に号泣したのだろう?それは理屈ではない世界が、ポリシーや思想で語られない世界が垣間見られるからではないだろうか?同じ『男はつらいよ』の中や他の山田洋二監督作品では、教訓臭さや説教臭さが垣間見られる作品も多いように思われる。
例えば『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』(1980年12月)では、亡くなったテキヤ仲間の一人娘すみれ(伊藤蘭 元キャンディーズ)が上京し、定時制高校に通うのだが、そこの国語教師(松村達雄)がこんな詩の授業をする場面がある。
便所掃除
濱口 國雄(詩人 元国鉄職員)
『詩の心を読む』茨木のり子(岩波ジュニア新書)
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります
(中略)
朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうらまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
(中略)
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
この詩を朗々と朗読し、その世界を想像せよという強制力が感じられる。最初から人生の正解を受け取るようで、便所の臭さと汚さ以外の想像力が湧いてこないと思うのは、ぼく一人だろうか?同じ山田洋二の『学校』シリーズも同じような説教臭さが通底している・・・。あまりにもストレートすぎるのだ。
『奮闘編』の花子の悲しみやつらさ、その世界をもっと実感してみたいという衝動が、つまり想像させる映画のパワーがぼくを急行津軽に飛び乗せた。
『男はつらいよ』シリーズは、最終的にはハッピーエンドで予定調和の世界に落ち着く。
しかし、本当に予定調和なのかどうか?花子や福士先生のいた田野口小学校が廃校になった後、花子は一体どうなるのだろうか?そういう想像力をかき立てるのは、当時の社会状況や心的状況だったと説明するには、あまりに簡単すぎる。
『奮闘編』は、『男はつらいよ』のシリーズの中、マドンナ役として子どもが採用された唯一の作品だろう。寅次郎と花子というミスマッチが想像力をかき立て、花子の未熟さが予定調和を疑問視させているに違いない。定番やルートを外れることで、想像力は更なる高みを目指していく。
(続く)