NO 1655 小説『記憶』という名のあなたをたずねて(4)
小説 『記憶』という名のあなたをたずねて(4)
―北野 洋(きたのひろし)の記憶と希望
Part 3 麗しい記憶―お姉さんと一緒(2)
麗しい政治の季節は去った。1970年の安保闘争で心身共に疲れ果てた北野は、翌1971年、大学にもほとんど行かず、アルバイトで生活していた。闘争で逮捕歴もあり、あれほど蜜月の記憶がある父からも勘当。学費も生活費も自力解決しなければならなくなった。
その年のゴールデンウィーク、北野は皮のトランクを引っ提げて東北の旅に出かけた。
【21歳の時のお姉さん】
大好きだった宮沢賢治の花巻を起点に遠野、釜石、山田とリアス式海岸を回り、宮古の浄土ヶ浜に来た時だった。休憩所のベンチに座っていたら、女性の二人連れが声をかけてきた。一人は、四十手前、もう一人は30前後、茨城県の桜村から来たという。
「どこから来たの?大学生?」
「はい、東京の学生です」
どこの大学か?大学で何をしていたのか?何年生か?出身は?名前は?あれこれ根掘り葉掘り訊かれた。当然、学生運動のことも話す。
「そうだったんだ。大変だったわね。ところで、洋君、今晩泊まる所決まっているの?」
「いや、行き当たりばったりで、何も決まっていないんです。ずっとユースホステルに泊まっているんです」
「じゃあ、私たちが予約している旅館にいらっしゃいよ。今から電話すれば一人くらい大丈夫だから。宿代は払わなくて大丈夫!私たちに任せなさい。ね!」
宿泊したのは、宮古の北、田老町の旅館だった。旅館のすぐ前に何メートルあるのだろうか、高い堤防がある。チリ沖大地震の津波で被害を受けたため、この堤防を作ったという。旅館の夕餉に出てきた新鮮な魚介類に舌鼓をうち、お姉さんたちの部屋で泥酔してしまった北野・・・。
翌日、龍泉洞に三人で訪れ、それはそれは楽しい一日を過ごした。
別れの時、二人連れも年上の女性が小走りにやって来て、「これ、さっちゃんの電話番号。電話かけてあげて!東京に帰ったら、必ず電話をかけてあげてね!」
帰京して電話をかけた。上野発の常磐線の電車に乗って来るよう指示され、さっちゃんと土浦で合流。五浦港や勿来の関を歩いたが、「洋君、私みたいな年上じゃなく若い子と付き合って、ちゃんと結婚しなさい。わかった?」など、あれこれお説教され帰ってきた。
後日、納得いかないので、土浦駅で待つていることを手紙で伝え、当日3時間待ったけれど音沙汰なし。ああ、完全に振られたんだなあ・・・。しかし、不思議と痛手はなかった。1971年8月15日、土浦駅前で終戦記念日のサイレンを虚しく聞く。
2015年、44年ぶりに田老町を訪れた北野。その情景に息をのむ。さっちゃんたちと泊まった旅館はおろか、住居が全て無くなっていた。2011年3月11日の記憶と1971年5月4日の記憶がオーバーラップする。
さっちゃんがこぼれる桜の花びらを手に取ろうとしている1枚の写真が北野の手元にある。その裏には、こう書かれている。
『優しい光があるような・・・』
(続く)