NO 1662 道を問うても答えなく 徳はどこにあるのやら(1)
道を問うても答えなく 徳はどこにあるのやら(1)
―これが?これも?これは?これで?
プロローグ
『道徳』について、ウィキペディアで調べてみた。
道徳は、次のような意味をもつ。
道徳
人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪・善悪の規範。個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。社会性とも関わる。
道徳観
道徳に対する観方、捉え方。正邪・善悪の価値観。個々人の価値観に依存する。
道徳的規範
道徳観に基づく規範。嘘(うそ)をつくことは悪いことだというように多くの人々から是認されている規範もあれば、動物を殺して食べるべきではないというような少数の人々が従う規範もある。
道徳的社会規範(社会道徳)
社会や共同体において、その構成員の大多数によって共有される道徳観に基づき、より健全で快適な共同生活を送る為に守るべき、又は行うべきと考えられている規範、行動の指針のこと。
道徳性
正邪・善悪を区別し、道徳的規範に従う心、能力、判断のこと。道徳心
道徳的規範は、成文化された規則である法律と一致しない場合もある。
道徳的規範は非常に幅が広く、文化の多様性と同じだけの驚くべき多様性がある。様々な種類の規範は、マナー、エチケット、タブーとも関連する。儀礼や式典して、形式化されていることもある。
それでも、様々な社会の間に共通した特性を発見することができる。例えば、互恵関係、忠誠・権威の尊重、身体的な危害の制限、性的関係や食べ物の規制などである。この類似性が何に起因するのかは、議論の的であった。
聖職者のような伝統的な道徳主義者は、道徳一般の擁護者を自認するが、実際には貞節や禁欲のような特定の規範を擁護しているだけである。
あるあるあるある、こんなにある。『道徳』という定義の元になる規範の基準・標準値は、人それぞれ違う。違っていいはずだ。思い起こせば、『道徳』の授業を受けた記憶も、授業した記憶もない。学校現場にいた頃は、〈歩く非常識〉と呼ばれていたぼくが、学校一般の規範に従った『道徳』の授業をまともに出来るはずがない。そもそも『道徳』とは、誰かに教わったり、あるいは教えたりするものではなく、日常の断片の中から感性をベースに自ら切り取っていくものではないだろうか?
ぼくの日常の中で感じたことを綴ってみよう・・・。
Part 1 レールを外れることさ・・・ ―これが、道徳?
ある県の教育研究集会でのこと。ぼくは、あちこちの教研では、だいたい第4分科会(算数・数学)に共同研究者として呼ばれることが多い。最後のまとめの発言を求められたもう一人の共同研究者が「私の授業作りの指針・道標は、学習指導要領に書かれていること全てです。皆さんもこれを指針にして下さい」と発言し、失笑をかっていた。
ぼくは、学習指導要領とは全く対極のところで授業を創ってきた。お上の言うことが正しいのかどうか、きちんと吟味し、使えないものは使えないでいいではないか・・・。大体、学校は国民を育成することを目的にしているので、授業の内容が『役に立つ=有用性』に立脚しているかどうかに規定されている。学習指導要領=(あるいは→)教科書に縛られている教員は、その範疇(要領に規定されている有用性の中)で授業を作ろう(創ろうではない)とする。
例えば小1のたし算7+6の指導を縦書きの筆算で教えない。学習指導要領では、2年生で教えることになっているからだそうだ。そして、市販テストで子ども達の評価を行なう。市販テストで評価するということは、市販テストの学力観で子どもを評価するということに気づかないのだろうか?実にくだらない・・・。
以前、六本木のミッドタウンで行なわれている『デザイン・あ展』を観てきた。授業作りのヒントがたくさんあった。特に面白かったのは、『ごちゃまぜ文庫』。木で作った本の背表紙に書かれているタイトルを単語で二つに切断し、ばらばらに組み立てられるようになっている。例えば、『走れメロス』を『走れ』と『メロス』にわける。たくさんある木製の本をそれぞればらばらにし、適当に組み立てると全く違うタイトルの本になるというわけだ。
『海底二万マイル』をばらばらにしたものと『おむすびころりん』のばらばらを合体させると、『おむすび二万マイル』。笑っちゃった!『走れメロス』も解体され、『走れじいさん』になっていた。赤いろうそくとじぞう・ガリバーこわい・我輩はロバの耳・ロミオと赤おに・こぶとり合戦・はだかの二十面相・王様の耳は無情・銀河鉄道の茶釜・・・。無尽蔵にタイトルができる。
さっそく、これを使った授業レシピを考えた。簡単に言うと、本のタイトルをテープに書く→タイトルを二分割する→二つをばらばらにする→上と下を合体させ新たな本のタイトルを作る→どんな内容なのかお話のあらすじを作る・・・。
学習指導要領というルートから逸脱できない教員は、この手の授業を一生作れないだろうし、創ろうともしないだろう。単なる有用性だけに視点を置くのではなく、面白さやハプニングをベースに教室をびっくり箱にしていく視点が求められる。
こんなことを公立学校校長のY君に電話で話したら、「木幡さん、それに似たのを村田さんが書いていましたよね。デペイズマンですよ」とのこと。全く同じではないが、思い浮かべた単語二つを組み合わせて「○○は○○だ」というお話を作る実践を思い出して調べてみた。『ことば遊びの鏃(やじり)』と題し、『現代詩手帖』1976年5月号(『飛べない教室』1977田畑書店に収録)に書いていた。ああ、師匠の故村田栄一は、40年前にこんなことを考え実践していた。やはり先見の眼があったなあと嬉しくなった。
『デペイズマン』は、シュールレアリスムの手法の一つ。
※ ウィキペディアには次のように書かれている。
「この言葉は、もともとは「異郷の地に送ること」というような意味であるが、意外な組み合わせをおこなうことによって、受け手を驚かせ、途方にくれさせるというものである。文学や絵画で用いられる」
そうなんだよなあ・・・。途方にくれさせる。子どもの中に事件を引き起こす。亀裂を創る。ダイアローグは、そこから生まれてくる。師匠村田栄一の言っていたこと、彼が見つめていたもの、いやもっと先にあるものがようやく見えてきたように思う。教師もレールをはずれなきゃ・・・。
ケサラ ケサラ ケサラ
隠してた本当の夢は
涙と歌 道連れにして
レールをはずれることさ
by リクオ
そして村田栄一は、こう言っている。
「ことば遊びが放つナンセンスの鏃に付着している<毒>の効用ということをもっと考えてみたいと思っているところだ」(上記『現代詩手帖』より)
<毒>学校にとっての毒、教育にとっての毒・・・。『道徳』の基準を覆す指針は、ここにある。
※ 村田 栄一(むらた えいいち)
1935-2012 昭和後期-平成時代の教育評論家。
昭和10年12月23日生まれ。昭和33年神奈川県川崎市の小学校教員となり,村田学級の名で知られる独自の教育活動をおこなう。55年退職しスペインに遊学,セレスタン=フレネの自由教育運動に共鳴し,教師を対象とする教育工房を主宰。平成24年1月21日死去。76歳。神奈川県出身。横浜国大卒。著作に「戦後教育論」「無援の前線」など。
(続く)