デイリーフレネ

NO 1674 阿部進への道 ― 過去への課題 (2) 2018.12.05


PART 1 日光への道・・・

―戦後民間教育運動への期待と陥穽

 

今、手元に雑誌『望星』(東海教育研究所)1975年新年号がある。現在も発刊されているが、当時、教育誌として最も先進的な記事が満載されていた。

この号は、特集/教育実践記録を読み直す。

 その中に、アンケート『私が出合った実践記録三冊-現場教師四十三人の証言』というページがあり、五十二人中返答があった四十三通の全文が載せられている。一人当たり三冊の四十三冊だから、ダブリも入れて計129冊。

その中に、阿部進のベストセラー『現代子ども気質』1961年(新評論)が一つも登場していない。

一世風靡した〈現代っ子〉の生みの親、阿部進が登場してこないのはどういうことだろう?

 

  ちなみに最も多かったのは、『学級通信ガリバー』(社会評論社 旧版『飛び出せチビッコ』エール出版を含む)村田栄一13、続いて『山びこ学校』(百合出版)無着成恭 4、『学級革命』(牧書店)小西健二郎 3、『山芋』(百合出版)寒川道夫編 3、『村を育てる学力』(明治図書)東井義雄 2、『不可視のコミューン』(社会評論社)野本三吉 2と続く。

 

同じ号、『討論=教育実践記録 再評価の視点』(海老原治善・遠藤豊吉・村田栄一)で遠藤豊吉(当時、武蔵野市立井之頭小)村田栄一(当時川崎市立向丘小)は、次のように述べている。

 

遠藤 阿部進の提起したものは、生活指導と教科の力をつけること、しかもその粘着剤として生活つづり方を使うという、その三つのやり方ではたして教育は完結するのかどうかということだったと思う。

 

村田 六十年代初期に生活単元学習批判という形で系統性ということが強調されてきたけれども、それをもう一度受けとめていく側の生活全体をみなければいけないということになってきた。それが例えば解放教育とか「障害児」の教育権をどうするかという具体的な形で出てくる。これは一人の教師が何をしたかということではなくて、その教師が地域なり父母なりあるいは子供なりとどう結びついているか、ということを抜きにしては論じられない問題になってきているということですね。

 

阿部進は、『子どもの生態から学ぶ』ということを繰り返し述べている。これは、とりもなおさず、教師の価値観を子どもに注入する・子どもを教師の側に引きずり込むという観点ではなく、子どもを生のまま直視し、それを教師というフィルターの中でろ過せず、フィードバックしていくという行為に他ならない。遠藤・村田の見方に通底しているのはこの点だろう。

 

阿部進は、こう言う。

阿部 「こどもの都合」ということが自分自身に欠落していると思うんだ。障害児学級をやっているうちに、こどもの都合に立たなければこっちは何もできないんだということを教えられたというわけ。

             -『いま語る戦後教育』村田栄一編(社会評論社)-

 

1975年当時の教師・戦後民間教育の潮流は、やはり〈教師主導=大人の都合〉の学力観や児童観であることから、阿部進の観点は理解されない。だからアンケート調査に『現代子ども気質』は出てこないのだろう。そういった意味で、阿部進は時代を先行していたのだ。

 

阿部進は、戦後民間教育運動を軽んじていたわけではない。

1951年、降ってわいたように日教組第1回全国教研日光集会の報が届く。

参加すべきか否か、これが問題だ。当時の組合は、管理職も含めた連合会で組合の要職経験者が校長への近道的存在であり、日教組の全国教研への参加を校長が拒む。

阿部進と同僚の伊藤是彦は無届で日光に行くことにした。しかも、川崎から日光まで自転車で!

 阿部進は、同僚の伊藤是彦と共に無届で日光に向かう。

「第1回の全国教研ね。若かったからなあ・・・。これは行かなきゃいけない。行けば、       「教師  「神奈川の教師だけじゃなく、全国の教師とつながることが出来る。当時の組合は賃上げ闘争とか法令闘争ばかりで文化的なことを全然やっていない。何とかなると思ったんだねえ。ぼくは、進駐軍払い下げの競輪用の自転車を借りたんだけれど、踏み切りはないしブレーキもない。坂道を下る時なんか、死ぬかと思った・・・。平和教育の分科会に出て、今後の方向性が生まれたよ」


  この日教組第1回全国教研日光集会については、『教師の条件』1958(明治図書)の中に収録されている『日光街道三百キロ』に詳しい。今や伝説として語り継がれている。

 

甲府の会で嬉しそうに話す阿部進の顔が忘れられない。

 

その後、日本作文の会・歴史教育者協議会・郷土教育者協議会などに参加し、サークルの輪を神奈川に広げていった。そのオルガナイザー的役割は、特筆に値する。

 

1951年、そのころぼくは、まだ2歳。古いアルバムに『寛とニャンコとおじいさん』と題した写真が貼られている。金太郎の腹かけをして陽だまりにすわっているまだ行き先が未知なぼく・・・。しかし26年後の第27次日教組全国教研沖縄大会でようやく阿部進とつながることができる。埼玉の正会員として算数・数学の分科会に参加することができた。教員生活二年目のことである。

              ― 続く―

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