デイリーフレネ

NO 1680 après-coup(アプレ・クー)への道―迷うための地図を求めて(2)2019.11.25



「フェイスブックにアップした時使った映像の文献は?」の質問がありました。
あれは、『初源への言葉』吉本隆明(1979青土社)よりP365~366『遠山先生のこと』からの引用(1978 『遠山著作集 内容見本』太郎次郎社の中より引用)。
2ページに渡って書かれているエッセイだけれど366ページは「で有り続けている」のたった8文字1行。

同著P422~431は『遠山啓さんのこと』という追悼文が書かれている。
これは、確か『追悼私記 完全版』吉本隆明(2019 講談社文芸文庫)にも収録されている。
吉本はこう言う。
敗戦後の大学で「はしゃいでいるのはとんだ一夜漬けの馬鹿だけだとわたしにはおもわれた。敗戦とはなにか、大学とは何なのか、学問とはいったいなにか回答することもことなしに、大学がまたぞろ再開されようとする姿が醜悪で嫌悪だけがどうしようもなく内訌してくすぶっていた」
今も状況は、変わっていない・・・。

さて、本題に戻ろう。


Part1 予定調和はない―行き先は未知、そして迷うための地図

 

「結局、外から注入するのではなくて、子どもが自から求めて指導要領に求められている学習内容に到達していく、その過程に学ぶ力が働いて学んだ力が獲得されていくという、それが本当の学力の姿だと思います」
           大槻武治―伊那小における総合学習創成期の実践

『戦後の教育実践、開拓者たちの声を聴く』早稲田大学教師教育研究所監修(学文社 2019)

 


※ 新しいものに飛びつくのではなく、過去の実践に学び、彼らのあこがれにあこがれるこ

 と が未来につながっていく。上記の文書は、いかに総合学習を取り入れても、最終的に

学習指導要領に収斂されるという意味で、反面教師として学ばさせて頂いた。これが、公

教育の限界だろう。しかし、これが30年以上前の正統であり、今もなおその脈絡が続いて

いる。学びとは、何かに収斂されるのではなく、各個において拡散されていくものではな

いだろうか・・・。

いかにアクティブラーニングや総合学習を行っても大人が定めた目標という山頂を目指すフォアキャスティング的授業・・・。つまり、教員のルートに乗せていく授業。これは伝統的な教え主義の亜流であるが、方向や目標設定が誤っていると取り返しがつかない。今の日本の教育は、どのような味付けをしてもこの域を脱する事はできない。

 

その逆を考えてみよう。子どもの疑問や興味から出発し、自ら目標を設定する。それに達するための具体的な方法を考えていく。つまり、理想や目的(山頂)から麓を見ると思いがけないルートやイノベーションが見つかるかもしれない。今、こういうドローン的発想の授業(バックキャスティング的授業)が望まれている。

何が正統で何が異端なのだろうか?それらは時間軸の中で変化していくのだろうか?

 

ここまで考えてみて、はたと気づいた。いくら子どもの疑問や発想をベースにして授業を考えても、最終目的地は決まっている。つまり、何かに収斂してしまうのだ。収斂してしまう前にあらぬ方向に目的が変更されたり、収斂したかのように見えても拡散していく。ひとが学ぶということは、きっとこういうことに違いない。目的に向かうルート・地図を作ることも重要なのだが、迷うための地図を作るような授業・・・。

 

今から25年前、読書会で取り上げた『千のプラトー』ドゥルーズ&ガタリ(1994河出書房新社)の序章に出てくる『リゾーム』のような発想が必要なのだと思う。当時の読書会で今のような授業づくりの発想ができたのかどうか?いや、きっと無理だったろう。(今だからわかる。きっとこういうことを知りたかったに違いない)と思われるような『懐かしい未来』に遭遇できた幸せ・・・。

※ リゾーム(rhizome

伝統的に西洋の形而上学はある絶対的な一つのものから展開していくツリーのモデルをとってきたと解釈し、それに対抗して、中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するノマド的なリゾームのモデルを提唱。狙いは、体系を作り上げそれに組みこまれないものを排除してきた西洋哲学に反抗し、リゾーム(地下茎、根茎)をモデルに発想の転換をさせるところにある。

                        ―wikipediaより~

 

「上野さん、アプレ・クーってどういう意味ですか?」

「それはね、木幡さんのやっていることそのまんまじゃないですか。青春18きっぷを買って、当てもない旅に出ていろんなことに出会い、東京に戻って来てまた旅に出る。やってみなけりゃわからない。そのことですよ。アプレは、~の後。クーは打撃とか打つってことかな。クーデターに共通しているよね」

 

いろいろ調べて、スペルも意味も解らないのでフランス留学経験のあるお友達Tさんに訊いてみた。

après coupは福祉と名詞が結合した熟語。「何かの出来事が起こってしまった後で」の意味。aprèsは軽い副詞で、「それから」程度の使用感。
 coupを使う言葉はアタックとか打撃、その回とかその刹那の意味合い。
 フランスは主体的なナラティブの盛んな国なので、文の中の時制にもとても敏感なんです。「そういうことがあって」「それから」「続いて」「その後」「後になってから」等々言ったら、結論部分の時間(現在でも過去でも)から回想の過去をバーッと照らし出すような、時間の層の厚みが出てくる。

恐らくガタリのリゾーム関連で『何かの出来事が起こった後、それに関連付けられる新たなルートが結合される迷うための地図的意味合い』だと勝手に解釈することにした。やってみなければわからない、ルートを外れることによってわかることがある。そんな観点ではバックキャスティング的授業につながるが、アプレ・クーの方が不良っぽくて好きだなあ・・・。

ガタリが影響を受けたフェルナン・ウリ(ガタリの主要な活動場所であったラ・ボルト病院院長ジャン・ウリの実兄)は、ぼくが実践しているフレネ教育の創始者セレスタン・フレネの弟子であることもわかった。


ぼくなりに考えて、『アプレ・クー』を次のように考えてみた。

 

『アプレ・クー』の授業

après-coup(仏)事後性、一撃の後→やってみなきゃわからない

après(仏) ~の後に coup 打撃 (それは、どこでどのように起きるのか?)

  ネーティブアメリカンでは、戦争での英雄的な行為を意味する。仏語に由来。

  クーデター(国家に対する一撃)参照

  リゾーム的な広がり

  目的地にたどり着くための地図を作るのではなく、迷うための地図を作る

 

事後的に、経験後に「ああ、こういうことが知りたかったに違いない」

      ↓

This must have been what I wanted to learn.

後で気づいたことが感性を開く

バックキャスティングの無意識的結合

     ↓

意図していなかった何かが見えてくるような授業=après-coup行先は未知


                                    (続く)

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