デイリーフレネ

NO 1681 après-coup(アプレ・クー)への道―迷うための地図を求めて(6)2019.12.03

Part6 彌永 健一さんからのお便り(2)-教育勅語について

つながりとは不思議なものだ。そして、迷路はどこまでも続き、いつか何かにつながっていく。

お散歩の授業で立川の昭和記念公園に行く車中の中で、タブレットを開いたら、彌永健一さんからの第2信が届いていた。内容は、戦前戦中の体験の中に浮かぶ教育勅語について・・・。

教育勅語という名前は知っていても、それを読んだことがある人は少ないだろう。
まして、誰がそれを作ったのか、そしてそれが何を意味するのか知っている人は、もっと少ないだろう。あれこれ言うのではなく、まずは彌永健一さんの文章を読んでもらうのが一番だ。

昭和記念公園に行く途中に、教育勅語・・・。
そしてこの日の朝日新聞朝刊第1面下段に、教育勅語を作成した井上毅(いのうえこわし)について、憲法・皇室典範・教育勅語等を起草、日本の基礎を作った男『忘れられた天才井上毅』の書籍広告が・・・。

さらにリゾーム化するアプレ・クーの世界・・・。

--------------

お散歩の授業で立川の昭和記念公園に向かう車中で、読ませて頂きました。

またまた、不思議な縁です。

熟成してから、授業化を考えます。

What is this ?

Who does write it ?

Why does write it ?

What happened?

以下、彌永さんの文章・・・。


教育勅語(ちょくご)のこと

弥永健一

 

森友学園

 

森友学園の園長が安倍夫妻の「お友達」だったころ、園児たちが大声で教育勅語を暗唱する有様が報道されていました。アジア太平洋戦争の記憶が消えていないわたしにとって、教育勅語は戦時の暗い日々を呼び覚ますものでした。しかし、多くの若い人たちは「教育は分かるけどチョクゴって何?」くらいの思いで、それ以上追求することもしなかったのでしょう。また、元防衛大臣の稲田朋美氏のように「教育勅語には良いところもあります」と公言していた若い人たちもいます。

気が付いてみるとわたし自身、教育勅語を読んだことがありませんでした。改めて読んでみて自民党改憲草案の中身に相通じるものがあると感じました。

 

疎開先で見た夢

 

19458月にアジア太平洋戦争が終わった時、わたしは両親や祖父母と一緒に疎開していた長野県で小学校(国民学校)1年生でした。東京にいたとき、父の弥永昌吉は1934年にドイツ、フランスへの留学から帰ってから東大で数学を教えていました。満州事変が起こったのは1931年だったので、アジア太平洋戦争が始まっていた時期です。これは戦争が終わってからずいぶん経ってから知ったことですが、疎開先で父は陸軍の暗号関係の極秘仕事を引き受けていました。父は数学教室の学生たちも同じ仕事につかせていました。学生たちを前線に送ることを避けたいと思っていたと後になって知りました。(このことについて、父は戦後に公にし、軍に協力したことを反省しています。)

銃を持てる男性はほぼ全員が戦地に動員されていたそのころ、父を含めて何人もの若い男性が田舎でたむろしていたのは近隣の人々にとっていぶかしいことだったでしょう。暗号の仕事についていることが知られてはならなかったのです。近隣の人たちは「前線で皆がお国のために戦っているのに、あのひとたちはなにしているの?」と思っていたかもしれません。学童疎開で幼い子どもたちは親と離され、父親は戦場へ送られ、母親や年上の子どもたちは兵器工場などで働かされていた当時、夫婦も家族も一緒に疎開していたわたしたちのことも「お国のために役に立たない人たち」と思っていた人たちもあったでしょう。わたしより一歳年下の弟と、幼かった妹とわたしはいつも腹をすかして両親を困らせていましたが、近所の人々は冷たかったように覚えています。

わたしは朝になると隣組の子どもたちと隊列を組み、学校まで掛け声をかけながら行進しました。学校に着くと朝礼で天皇の御真影(写真)に号令一下頭を下げました。わけもわからずに皆と一緒に行動することが苦手だったわたしには行進も御真影拝礼も苦痛でした。でも、「一億総動員」の時代、「お国のためにならない」ものは生きてはならないし、「天皇陛下を敬わない」態度をとるものは「お国の敵」として排除されるのが当たり前だったあのころです。重苦しい気持ちでわたしは皆と同じように「いい子」にしようと努めていたように思います。それでも、町っ子だったわたしは地元の男の子たちからいじめられていました。

わたしは学校に行くのがいやになり、朝になるとおなかが痛くなったりして母を困らせていました。あるとき、母は、いやがるわたしの手を引きながら学校へ向かう田舎道を歩いていました。前の日までの大雨で水かさが増し荒々しく白い波を立てていた川辺で母は立ち止まり、青ざめた顔で「健ちゃん、一緒に死にましょう」といいました。背筋が凍る思いをしたわたしは「ぼく、いい子にする」といって母の手を引き学校までたどりついたことを覚えています。

米軍機がナパーム弾で全国各地の都市を焼け野原にしていたそのころ、空襲はなかった疎開先でも晴れた空をみると不安になりました。815日に聞き取りにくい声の「玉音放送」(天皇による敗戦宣言)があってようやく戦争が終わりました。のびやかな気持ちで空を見上げることができるようになった少し後で、わたしたち一年生の子どもたちは校庭に集まっていました。若くて優しかった女性の教師がわたしたちに「日本は負けたんよ」と話し「切ないね」とつぶやくように言いました。

それからあまり日が経たない頃、夢を見ました。両親にも弟や妹にも話せなかった恐ろしい夢です。夢の中では戦争はまだ終わっていませんでした。すぐ年下の弟と幼かった妹とわたしの3人が夜遅い時間に学校の体育館のような広い場所で体を硬くしてたたずんでいました。ほかにもその場所にいた人々がいましたが、彼らの姿は影絵のようにおぼろでした。隣の部屋の重い扉が開き両親やほかの大人たちが入ってきました。両親は下着だけの姿で、体中に刃物でひっかかれたような傷がありました。それでも彼らは自分たちのことよりも子どもたちのことが気がかりで、どこか痛いところはないかなど、わたしたちの体をあちこち撫でたりしていましたが、また扉の向こうへ連れ去られ、重い扉が閉まりました。扉の向こうで起こっていたことが何だったか、知りたくない、考えたくないけれど「お国のため、兵隊さんたちのためだから」と、わたしは自分にいいきかせながら3人で体を寄せ合っていました。翌朝、白々とした部屋で、わたしたち3人は新しく母親になる人に会っていました。眼鏡をかけ、にこりともしない彼女に、わたしは幼い妹をかばうように「この子はお母さまのことをマーマといいます」といったことを覚えています。次の場面は朝の校庭です。一年生のわたしたちの前に優しい女性教師が立っていました。校舎の陰に新しくできた墓があり、墓碑のかわりにたくさんの三角形の旗をつけた棒が斜めに地面に刺さっていました。両親たちの墓です。先生が「切ないね」というのを聞いて、わたしは夢の中で気を失いました。

6歳だったわたしが見た夢はなんだったのか、わかりません。ずっと後になって、ナチスドイツの収容所に入れられた子どもたちが兵士たちのために使う輸血材を採取するために血を抜かれたことを読み、夢のことが思い出されました。アジア大陸で日本軍が捕虜たちに病原菌を植え付けて死ぬまでの有様を観察したり、彼らを生きたまま解剖したりしていたことを知った時にも、夢のことがありありと浮かび上がりました。あれから70年以上たった今でも夢の細部までが記憶から消えません。

教育勅語が全国で「神の言葉」として恭しく唱えられていたあの時代は、わたしにとって、悪夢の時代でした。

 

教育勅語

教育勅語のことに移りましょう。臣民(しんみん)という言葉が出てきます。天皇に仕える民という意味です。臣民は日本国民とは限りません。明治維新直後に一方的に日本領土に組み入れられて北海道と呼ばれることになったアイヌ民族の土地や、その後、軍事力を背景に日本の一部とされた琉球王国(沖縄)、それに日本の植民地とされた台湾、朝鮮などの人々も臣民とされ、彼らを「立派な臣民」として教育するために教育勅語が使われました。臣民とされたことは、それまでの生活、文化、言語、価値観を遅れたもの、野蛮なもの、汚れたものとして否定されることでした。「旧土人」として、臣民教育を受けた人々は、自分たちを産んだ親たちを恨み、自分たちを恥じ、いくら努力しても差別され続ける社会で生きることを強いられたのでした。

勅語とは、「天皇が臣民にじかに下さるありがたいお言葉」というような意味です。内容はやたらに難しい文面ですが、次にこれを紹介し、わたしの訳文をつけます。

 

教育ニ関スル勅語 (明治231030日)

   (ちん)(おも)フニ我カ皇祖皇宗国ヲ(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ()ツルコト深厚ナリ

   [訳:天皇である私が思うには、(あま)(てらす)大神(おおみかみ)から神武(じんむ)天皇に至る皇室の祖先が遥か昔に国を始められ、それ以降私明治天皇まで代々の天皇がそれを引き継いできてこれまで遠大な年月が経つ。代々の天皇の徳は深く厚い。]

 

(わが)臣民(しんみん)()ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ(いつ)ニシテ世々()ノ美ヲ()セルハ此レ我カ国体ノ精華(せいか)ニシテ教育ノ淵源(えんげん)(また)(じつ)(ここ)ニ存ス

[訳:億兆の私の臣民は、心を一つにして上に立つものには忠、親には孝を尽くす美風を誇ってきたが、これこそ私を元首とする国を輝かせる花であり、教育がよって立つべきところも正にこのことにある。]

(なんじ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹(きょうけん)(おの)レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ(もつ)テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ(したが)一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

[訳:そなたら臣民は、父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫と妻はむつみ、友とは信頼しあい、ひとに対してはうやうやしく、自分の行いは慎み深く、人々をひろく慈しみ、学問を修め技能を習うことによって知識能力を開き人徳と才能を完成させ、進んで公益を広め、世の中の務めを開発し、常に皇室典範及び憲法を重んじ、国法を順守し、緊急事態発生の場合には大義のために勇気をもって公のために身を尽くし天地のように永久に続く皇室のため役立つようにせよ。]

 

是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ(とも)ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ(もと)ラス朕爾臣民ト共ニ拳々服庸シテ(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)

   明治二十三年十月三十日

御名御璽

[訳:ここに述べた道を守ることは、そなたらが、ただ天皇である私の忠良な臣民であるということを示すにとどまらず、そなたらの祖先の遺風を世に表すことにもなる。この道は皇室の祖先(天照大神から神武天皇まで)及び代々の天皇に伝わる遺訓であり、皇室の子孫と臣民がともに遵守するべきものである。これは昔から今に至るまで誤りのない掟であり、国内外でこれを用いても正しい道である。私、天皇は、そなたら臣民と共にこの掟を守り、それによってもたらされるよきことをともにすることを切に願う。]

 

   教育勅語が発表された明治23年(1890年)というと、その前の年1889年に明治憲法が発布され、朝鮮半島では清国(当時の中国)、ロシア、日本が勢力争いを続けていたころです。1894年には日清戦争が開始されました。戦争に備え、明治憲法で神聖不可侵とされた天皇を旗印とし、国民を天皇と国家のために身をささげる臣民としてまとめる必要があったのでしょう。教育勅語は明治天皇が「国民に直接下されたお言葉」とされましたが、実は、これを書いたのは天皇ではなく井上(こわし)と芳川顕正でした(『日本史資料』(上巻)、家永三郎監修、青木孝寿ら編 (東京法令出版、1973年)によります。以下『日本史資料』)。井上毅は、当時総理大臣だった山県有朋のもとで法制局長官を務めた人で、芳川顕正は山県の腹心でした。山県は明治日本の軍政を築き軍人勅諭を発布した人物です。二人が書いた文章に山県が加筆し、明治天皇に講義をする役をしていた保守的な儒教主義者元田永孚(ながざね)にも意見を聞き天皇に押印してもらい発表されたのです。

 

縄文時代、「神国日本」

   

自民党改憲草案の前文には「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって...」という文章があります。これは、教育勅語の始めの部分を今の若い人々にも受け入れやすくしたもののように思えます。さすがに神話のキャラクターである天照大神などはでてきませんが、森喜朗元首相がいったように、「日本は神国であるぞ」というのが本音ではないかと思われます。安倍政権の中軸を担う日本会議のなかには、「天孫降臨の話を映画にして世界に広めよう」などといっている人たちもあるようです。日本は遥か大昔に高天原(たかまがはら)という天の国から降臨した天皇の祖先、天照大神の子孫たちが開いた神国だといいたいのでしょう。

   一万年以上にわたる縄文時代、日本列島には数多くの部族集団が生活していました。アイヌ民族の言葉にウレシパモシリというものがあります。「生き物たちが互いに育て合う大地」という意味です。今でも世界各地に生きる「自然の民」は自分たち人間を「生き物」としてとらえ、ほかのあらゆる生き物たち、鳥、動物、魚、虫たち、草木や微生物たちが織り成す「いのちの輪」のメンバーとしての生き方をしています。彼らを狩猟採集民族と呼ぶことがありますが、彼らにとっての大地はまさにウレシパモシリ、生き物たちがそれぞれのいのちをやりとりしながら、互いに生かし合い育て合う世界です。部族集団それぞれがテリトリーをもち、そこにほかの人間たちが無断で侵入しようとするときには争いも起こりますが、テリトリーは部族の持ち物ではなく、ほかの生き物たち、草木たちと互いに生かし合う場です。

   縄文時代の日本列島には日本国はありませんでした。列島住民たちは、それぞれの土地固有の生き方をしながら母系社会を作り、アジア太平洋、インド、北アジア、遠く西アジアなど、はるか遠方の人々とも交流していたようです。彼らの生活は、四季折々の多様な食べ物にも恵まれたかなり豊かなもので、狩猟採集のほかにも、いも類や陸稲などの栽培をしていた時期もあったようです。縄文時代には餓死者がでたことはないようだともいわれます。しかし、アジア大陸で水稲栽培を中心とする農耕文明が現れ、都市国家ができるようになって状況は変わります。広大な土地が囲い込まれ切り開かれて水田になり、穀物蔵が並び、鉄の武器を持った数千、数万の軍勢が遠方まででかけるようになりました。テリトリーは「領域」になり、人間の所有物になり、邪魔な生き物は駆除され、領域を広げるための戦争がおこります。権力者と彼らに仕える国民が現れ、国民は国家のために穀物などの税を収め、労役、兵役を強いられるようになります。いつ戻れるかわからない遠方まで兵としてでかける民は男性にほぼ限られ、国家にとってまず役に立つのは男性、男性が上で女性は下だということにされます。労役、納税の単位として家父長を代表とする家族が国家の基礎的な単位とされます。森や野原を切り開き、「自然との闘い」に明け暮れながら農耕をするようになって、ときには天候不順、栽培種の病害などに伴って餓死者がでたこともありました。戦争や権力争いなどで土地を追われて移動を余儀なくされる集団も現れます。おそらく、そのような集団のなかに日本列島にまで移動し、その土地の民族や部族を「征服」して支配した天皇一族があったのではないかと、わたしは思います。一万年以上続いた縄文時代のあとに、水田耕作、都市国家形成を特徴とする時代が現れ、都市国家が次第に領域をひろげて、天皇の国家、「日本国家」が作られたのでしょう。

   自然の民にとって、世界は神秘に満ち、鳥たち、狼、熊など、それに隕石や大木、山々が、神々として敬われています。アイヌ民族は太陽を女神として、ほかの神々と並ぶ神として敬っていました。今でも日本各地にアイヌ民族由来の地名が残ります。かつてアイヌ民族の部族集団は日本列島に広く生活し、ほかの部族集団とも交流していたものと思われます。

   先住民族たちは次々と天皇の国家に組み入れられ、逆らうものは「征伐」されました。先住民族の文化や価値観は、否定され、差別されましたが、それでも形を変えて残り、支配者のなかにも浸透した部分もありました。神話で皇室の祖先とされる太陽神が女神として描かれることも、先住民族社会が母系社会だったことの名残かもしれません。

   縄文時代と比べれば、天皇支配の時代は短いものです。教育勅語の始めの部分で皇室の祖先が国を始めたのは遥か遠い大昔のことで、代々の天皇の徳は限りなく厚いなどとしているのは作り話です。先住民族を「征伐」したひとびとの徳が厚いということはあり得ません。天皇が太陽神の子孫で「神聖にして侵してはならない」存在だとする考え方はカルト的だとしかいえません。作り話を信じることを強制し、それを国家の基本に据えることは、支配者に都合の悪い事実は否定し、真実の追求は許さないこと、批判をするものを権力に逆らうものとして暴力的に排除することにつながります。

   教育勅語でも自民党改憲草案でも、天皇支配の時代は切れ目なく続いたというような印象を与える書き方がされています。しかし、長く続いた武家支配の時代に、天皇は名のみの存在でした。各地の大名が支配する藩を幕府が仕切っていた江戸時代は、藩の連合国だったといえましょう。江戸時代末期に、欧米各国による帝国主義、植民地主義侵略がアジアにも押し寄せ、軍事力を背景にして開国を迫られた幕府が危機に陥ったなかで、幕府は倒され明治の時代になりました。幕府への「忠」を否定し、これを倒すために、より高い「忠」の旗印とされたのが、新たな装いで登場した明治天皇制でした。地域色が強かった江戸時代日本を新政権のもとに統一国家に作り替えるために日本は神聖な天皇を元首とする神国であるとする神話が持ち出され、維新政府にたてつくものは神国の敵であるとされました。その一方、新政権は日本を欧米に習う帝国主義的な軍事大国に作り替える道を進み、「文明開化」のスローガンを掲げて、一種の文化革命を遂行しました。各地の神社神道はいまでも山、大木、岩などを拝むアニミズム的な色合いを持っていますが、維新政府は神道を国家神道として組織しました。仏教、キリスト教なども激しい弾圧を受けた後に国家管理のもとに組み入れられました。武家支配は解体され、大土地所有者、財閥など新たな支配層が生まれました。産業資本主義の導入に伴い、ひどい条件のなかでの労働を強いられたひとびとによる運動も起こり、人権、平等の思想も流れ始めます。過酷な租税制度や新たに導入された徴兵制度などに反発して大規模な農民一揆も起こりました。西郷隆盛をトップにした西南戦争など、士族による武装反乱も各地で起こり軍事的に鎮圧されました。そのような動きに危機感を持ち、軍事大国としての日本国家を「神聖な天皇」のもとに統合しようという目的のために、教育勅語が作られたといえます。 

 

儒教の徳目

 

   教育勅語にもどりましょう。「皇祖皇宗...」の部分に続いて、忠孝など儒教の徳目が並びます。儒教のバイブルといえる『論語』などが今に残る形でまとめられたのは中国の後漢時代に入る3世紀ごろのことで、そのころから儒教は思想、学問ではなく一種の宗教として扱われるようになりました(『儒教の歴史』、小島毅、山川出版社)。『論語』は紀元前5世紀に生きた孔子の言葉などをまとめた書物です。アジア大陸で都市国家の時代が始まったのはかなり昔のことですが、権力者たちは国家の基本を農耕文化に置き狩猟採集文化を野蛮なものとして否定しました。天が上、地は下とされ、国家の支配者は天の意を地に行うべきものとされました。四季の動き、太陽、月、星々の運行に沿う農作業を国家の事業として行うために暦がつくられ、時の流れ天体の運行を支配する数学的法則について扱う専門家たちが現れました。宇宙の動きに関わるシステムを基礎とする社会制度のありかたについて、いろいろな思想が編み出され、そのなかで孔子の考えが儒教としてあがめられるようになったのです。

儒教の考えでは、伝説的な古代王朝時代が一種のユートピアで、国家秩序が天地の本来的なありかたと調和していたとされるようです。人の欲望などでゆがめられた社会を古代のユートピアに近づけることを願って様々な規範が設けられました。複雑な時計仕掛けのような宇宙の仕組みに沿うものと考えられた規範に従う儀礼に始まり日常の行為を規範通りに行うことが「礼」の基本であり、「礼」が行われるならすべてが調和し、ひとびとは幸福である「仁」の状態が成り立つとされたようです。「仁」はひとびとを慈しむこととも解釈されます。儒教の徳目が、「仁」をはじめとして編み出されます。普通、それらの徳目は「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」のようにまとめられ、社会や家族での上下関係を重視する忠、孝は後の方に並びますが、教育勅語では忠、孝が徳目の始めに位置付けられています。

 

忠孝

 

   「忠」は「上に立つものに文句なしに従うこと」、「孝」は家族の長である父親に絶対的に服従すること」が本来の意味です。「忠」を徳目の最初にあげることは、自民党改憲草案で「公の秩序に反しないこと」が、国民の義務として強調されていることと相通ずるものです(改憲草案の批判については、拙稿の『「主権在民」から日の丸専制国家へ』(流砂12号)を参考にしていただければありがたいです)。「孝」を徳目の二番目にあげていることは、自民党改憲草案で「家族は、社会の自然かつ基本的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」などとしていることと響き合います。

生き物たちも、それぞれ、いろいろな形の家族(親子集団)をつくり、ある時期、親は実に献身的に子の面倒をみます。時には早々と育児放棄をする親もありますが、その一方、放棄された子まで、引き取って自分の子と一緒に世話をする動物もいます。しかし、時が来ると、親離れ、子離れが起こり、それぞれが自分の道を行かなければならないことになります。人の場合も、親子の関係はいろいろ移り変わるのが自然でしょう。人も、ほかの生き物も、家族だけでなく、隣人達、地域の山や川、海や樹木、そこにいきる生き物たち、それに星々の世界まで広がるつながりのなかで生きています。そのつながり方は、場所によっても時によっても様々で、移り変わり、それぞれの生き物は、育ち、老い、死を迎えます。生きるための時間を、ひたすら生きる生き物たちは、それぞれが掛け替えのない、その生き物固有の生き方を編み続けます。人も、どの家族の一員かということ以前に、それぞれが固有の個性をもち、生き方をもち、それだからこそ、家族とも隣人たちや社会とも関係しあうことができます。国家の単位として法で定められる家族の枠の中に多様な個性を持つひとびとを押し込めるのは不自然なことです。家族に限らず、ひとびとは互いに助け合うことが望ましいことです。しかし、「家族は、互いに助け合わなければならない」などと憲法で定めるのは、それこそ不自然です。

   日本国は、神聖で徳の厚い天皇の一族が「神代の昔」に始め、代々治めてきた「神国」だという作り話を信じさせ、忠、孝を徳目の第一として学ばせることが教育の基本であるという教育勅語を持ち上げるひとびとが今の政権中枢にいるということは、恐るべきことだとわたしは思います。日本国家に批判的な態度をとることは「神国」に歯向かうことであり、「上に立つもの」には無条件で従うべきだということを学ばせるような「教育」には抵抗するしかありません。どこまでいっても果てのない真実を追い、想像力と批判精神を養うこと、史実に向き合い「不都合な真実」からも顔をそむけないこと、そのような教育をこそ、求めたいものです。ちなみに、198911月に国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」にある「教育の目的」には、「子どもの親、子ども自身のアイデンティティ、言語および価値の尊重...」ということが含まれています。このような教育の目的に沿わない「教育」は受けない、受けさせないことも「教育への権利」に含まれます。

 

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ...」

 

   「爾臣民...」から始まる第二段では、儒教の徳目に他の倫理規定を加えた文章が続きます。儒教では家父長への服従を「孝」としていることは前に書きましたが、勅語では「父母ニ孝ニ」としています。勅語で臣民としての女性について書かれているのは、この部分と、それに直ぐ続く部分で「夫婦相和シ」とされている二か所です。女性の役割は、母として、妻として子を産み育て、家事に専念することだということなのでしょう。

   「兄弟ニ友ニ」の部分は、儒教では「(てい)」に当たるもの、「兄に従う」ことを義務とする徳目を踏まえたものでしょうが、ここでは「悌」ではなく「友」とし、「兄弟仲良くする」意味の表現が選ばれています。勅語の執筆者のなかに、「上下の秩序」の尊重だけではなく「和を尊ぶ」ことも重視したいという考える人があったのかもしれません。『日本史資料』によれば、執筆者のひとり井上毅は、教育勅語が公表される前の18906月に教育勅語についての見解を山形有朋宛てに送っています。そのなかで、井上は立憲主義の考えに従い教育勅語は「天を敬い、神を尊ぶなどの表現を避けるべきで、君主は国民の心の自由に干渉するべきではない」という趣旨のものにするべきだと主張しています。ただ、立憲主義といっても、井上の場合、国民は臣民として天皇の国家に尽くすべき存在でした。明治憲法にある言論、集会などの自由、請願の権利などは「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざるの限りにおいて」許されるものでした。井上は明治憲法の主要な起草者の一人でした。(『「主権国家」成立の内と外』、大日方純夫、吉川弘文館)ここにある明治憲法の考え方も、自民党改憲草案で、基本的人権は「公の秩序に反しない限り」許されるなどとしているのと同様です。このような「立憲主義者」の井上でしたが、彼の考えは、より保守的で神権君主制の考えに立っていた元田と軍国主義者の山県に押し切られたようです。井上は、民権の流れを軍事大国日本の国権の旗印を掲げて押しつぶそうとした明治政権の中心人物でしたが、そのような井上でさえ、今の世に生きていたら、支配権力を維持するためにひとびとの心の中まで踏み込もうとする「共謀罪」法に反対していたでしょう。

   勅語にある「夫婦相和シ」は儒教にはない倫理規定です。ただ、これは「夫と妻は相交わって子を産みなさい」というように読めます。軍事大国への道を走っていた明治政権にとって国家のために役立つ「臣民」を殖やしたかったのでしょう。

   「朋友相信シ」の「信」ですが、これは儒教本来の意味では「嘘をつかない」ということです。しかし、勅語で書かれていることは「友とは信頼し合いなさい」ということになるのでしょう。森友学園の園児たちが教育勅語を暗唱し、「安倍首相は日本を救ってくださる方です」などと絶叫していたころ、安倍夫妻は学園の教育方針を誉め、首相を忖度する行政は違法なやり方で公費をつぎこんで学園に便宜を図っていました。「お友達にとって信頼できる」首相だったわけです。ところが、「森友問題」がマスコミでもとりあげられ、園長夫妻が安倍首相にとって不都合な真実の一端を明らかにし始めると、首相は態度を一変し、嘘にうそを重ね、夫妻だけを悪者にして保身を図りました。夫妻は「お友達」ではなくなったわけです。首相のやりかたは儒教本来の「信」に反しますが、勅語のこの部分には反しないことになります。

   「恭倹己ヲ持シ」(自分の行いは慎み深く)は「礼儀正しくせよ」というような意味でしょう。この部分は、「上に立つものに従い、波風をたてるな」という、悪しき自己保身の生き方を強調しているようにも読めます。

   「博愛衆ニ及ホシ」(人々をひろく慈しみ)は儒教の「仁」に当たる徳目でしょう。「ひとびとをひろく慈しむ」ことはよいことです。しかし、この言葉が天皇から「臣民」に与えられたものだということには違和感を覚えます。教育勅語が発表された時期から10年ほど前の1880年代には深刻な不況に伴って農民が苦しんでいました。少数の大土地所有者、富農への富の集中も見られました。1890年には足尾銅山から流出した有毒な排水のため土地を離れなければならなくなった農民たちもありました。徴兵制度導入、アイヌ民族、琉球、朝鮮半島、台湾などへの侵略などのことも思わないわけにはゆきません。「ひとびとをひろく慈しみ」という「お言葉」は、まず勅語の起草者である山形有朋以下、明治天皇自身を含む権力者たちに向けるべきものだったと思います。

   「学ヲ修メ...世務ヲ開キ」(学問を修め...世の中の務めを開発し)の部分は儒教の「智」に当たる徳目と、「それぞれの務めに励み、世の中の役に立ちなさい」というようなことが中身だと思います。学問を習得すること、技術を磨くことなど、大切なことだと思いますが、学問が権威のある書物を読むことにとどまったり、先輩の技術を漫然と受け継ぐだけなら、ゆきどまりです。批判精神、創造力が大事です。また、「役に立つ」というと、金銭に換算できる価値を産むような仕事や、兵役について国家のために殺し、殺される仕事をすることまでが頭に浮かびます。それでよいのでしょうか?幼いもの、高齢で体の自由が奪われたもの、病者、障害者は「役立たず」でしょうか?確かに人の世話になるしかない状況は本人にも彼らと近いひとびとにも重荷になったり苦痛を伴うことがあります。しかし、そのような状況だからこそ、初めて見えるいのちの輝きや感動、他では得られない深い理解への道も可能になります。この世に生を受けたものに意味のないもの、役に立たないものはないとわたしは思います。

   「常ニ国憲ヲ重シ...」の部分は立憲主義者だった執筆者のひとり井上毅の意見を容れたものだったかもしれません。「憲法を重んじ、国法に従いなさい」ということです。天皇から「臣民」への指示です。

憲法の位置づけが教育勅語と現行憲法では違います。現行憲法第99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めています。憲法を尊重する義務を負うのは国民ではなく天皇をはじめとする権力者とされています。ところが教育勅語では天皇が臣民に「憲法、国法を順守しなさい」といっています。自民党改憲草案第102条も、その第1項で「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」とし、第2項で「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」と定めています。天皇は除外されています。ここにも教育勅語と改憲草案の類似点が見られます。

 

「緊急事態」

 

   「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(緊急事態発生の場合には大義のために勇気をもって公のために身を尽くし天地のように永久に続く皇室のために役立つようにせよ)の部分に初めて儒教の徳目「仁、義、礼、...」の二番目にある「義」が現れます。「義」は「道理、正しさのために、それが自分にとって不利になっても行動すること」のような意味です。「道理」、「正しさ」をどのように判断するかは簡単なことではありません。また、「大義のため」といって、他者の批判を許さず独善的な行動をするとしたら、それも問題でしょう。教育勅語では「大義」とは「緊急事態発生のときに公のために身を尽くし...皇室のために役立つこと」と特定されています。義による行動として、権力者の横暴を糺すことや、虐待されているひとびとと共に立ち上がること

などは論外なのでしょう。「公のため、皇室のための大義」ということになると、それこそ「批判を許さない大義」になります。アジア太平洋戦争の末期に「天皇のため、国のため」といって、爆弾に翼とエンジンを付けたような特攻機での自爆攻撃に駆り出された青年たちは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ...」の言葉通りに死んでいったのでしょう。教育勅語がいっているのは「緊急事態発生のとき」、「臣民」は国家と天皇のために進んで犠牲

になりなさいということです。

  教育勅語のこの部分は自民党改憲草案にある「緊急事態条項」を思わせます。戦争、内乱、地震などの緊急事態発生の場合に、内閣は法律と同じ効力を持つ政令を制定することができ、それについて国会の承認を受けるのは後回しにしてもよいなどということを

憲法に書き込むというのです。何が「緊急事態」であるかを決めるのは内閣です。

安倍政権は安保法制を強行採決したときにもみられたように、憲法さえも内閣で自分たちに都合の良いように勝手に解釈しなおし、「黒を白、白を黒」といいながら国会での議論もないがしろにしています。

   この1022日にあった総選挙で安倍政権は残念ながら勝利しました。この総選挙は、安倍首相に向けられた政治の私物化、加計、森友疑惑から人々の目をそらし、政権にたてつくものは北朝鮮の手先だといわんばかりの危機を煽り、野党各派の退潮、混乱に乗じて行われました。アメリカのトランプ大統領のご機嫌を取り北朝鮮を追い詰めることをのみ強調する安倍首相は、朝鮮半島での米軍によるジェノサイドや広い地域を巻き込む核戦争への道を進もうとしています。また、国内では強いものには優しく、弱い者には冷たい政策を進め、国防軍(自衛隊)による世界規模での軍事行動を合憲とし、「公の秩序」を基本的人権よりも重視し、政府による専制を合憲とする憲法改悪への動きを一層強めるでしょう。自民党改憲草案にある天皇の元首化は、「神国日本」の旗印のもとに、政府による専制を支えるために使われるでしょう。

 

「時代を超え、世界のどこでも通用する」

 

   「是ノ如キハ」に始まる最後の部分は、教育勅語が神聖な天皇に神代から伝わる「遺訓」であるとともに、「臣民」の祖先から代々伝わる「遺風」でもあり、どの時代にも、また、世界のどの場所でも通用するものであるといっています。これこそまさにカルトです。天皇の神格化、天皇制国家への絶対的服従を強いる教育勅語が、どの時代、どの場所にも通用する「バイブル」だということは、天皇の旗を掲げてアジア各国を支配しようとしていた侵略行為を正当化しようとするものでしょう。

このようなカルトを持ち上げ、これを教育に取り込み、ここにある思想を盛り込んだ憲法改悪を試みているひとたちが政権の中枢にいることをそのままにしておくわけにはゆきません。これからの子どもたちに、アジア太平洋戦争時代の悪夢を見させてはなりません。

2017/10/23

                               (続く)

 

  

   

 


 


日々の状況や教育エッセイをJF代表・木幡が執筆。
メールマガジンでもお届けしています。
登録はこちらから

インデックス

NO 1681 après-coup(アプレ・クー)への道―迷うための地図を求めて(6)2019.12.03


週別アーカイブ

バックナンバー

バックナンバー 2004 2003 2002 2001 2000 1999