フレネ自由教育

セレスタン・フレネについて

フレネ教育とは、セレスタン・フレネ(フランスの教育者 1886~1966)の名前からきている。

フレネがニースの師範学校で最終学年を過ごしていたとき、第一次世界大戦が勃発した。彼は、卒業を待たずに代用教員になり、そして戦場へと送られ、そこで毒ガスでしたたかに肺を侵され、70%肺切除の障害者となった。

彼は、自分が経験した退屈な学校生活と、悲惨な戦争への批判を胸に秘めて最初の赴任地バル・スール・ルー小学校に向かった。新しい教育を求めて、「解放された学校」グループに加わり、ドイツやロシアの学校を訪ね、スイスの新教育国際会議などにも参加する模索の道程が始まった。


■表現を中心にすえた学習の開始

大声を出せないというハンディキャップを持ったフレネは、伝達本位の教育ではなく、こどもの生活、かれらの表現そのものを学習の中心にすえることに活路を見いだした。こどもが書く自由作文を手がかりにそれぞれの研究へというコースである。そのために印刷機が導入され、プリントを交換する学校間通信が始まった。こどもたちが教科書に頼ることなく自分の力で研究を進めていくためには参考資料が必要だ。そこから、資料カードや小冊子が整えられることになり、学級文庫 Bibliotheque de travail が誕生した。


■自己訂正式カードとクラス自治の実践

こどもたちは自由研究だけでなく、計算や文法のシステマティックな習得もしなければいけない。しかしそれは画一的に強制されるのではなく、個々のこどもが自分のレベルに合わせて自分のリズムで学習し、自分自身で誤りを訂正できることが望ましいとフレネは考え、プログラム化された自己訂正式自習カードが作成された。ここから、自分でつくる学習計画表が生まれた。

自らのイニシアティブで学習を進めるこどもたちは、その学習が行われる場=クラスの自治を確保しなければならないということで、学級協議会が組織されるようになった。教育における民主主義がこのようにして形成された。


■フレネ教育の拡大

同じ時期ヨーロッパでは、ロシア革命への恐怖を煽りつつファシズムが台頭し蔓延しつつあった。極右勢力の策謀で、フレネの実践が標的とされ、学校騒動が仕組まれる。その結果下された「病気休職」「配置転換」という懲罰的な処分をフレネは拒否して退職。1935年、実験学校を設立した。


このフレネ学校が、その当時すでにヨーロッパ各地に拡大していたフレネ教育運動の拠点となり、内戦下のスペインから避難してきたこどもたちや教師も迎えた。

第二次世界大戦が始まった翌年、フレネは逮捕され強制収容所に送られ、フレネ学校も閉鎖された。18か月の拘留を解かれたフレネは、対独地下抵抗組織マキ団に身を投じレジスタンス活動を続けた。


戦後、サンポール事件をモデルとした映画『緑の学園』などでフレネの知名度は高まるが、一切のドグマの注入に反対し、あらゆる主義や無党派の教師をも結集する開かれた教育改革運動を主張するフレネに対して、執拗な攻撃を加えた共産党と絶縁することになった。

この混乱を越えて、フレネは1957年、現代学校運動国際連盟(FIMEM)の創設を提議し、実現する。

1966年10月8日、死去。遺体は生地の村に埋葬された。70年の生涯だったる

1996年、彼の生誕百年記念行事が盛大に行われ、ユネスコもそれに協賛した。


(出典:1998 フレネ教育者国際集会のパンフレットより)


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