フレネ自由教育

エディアサイドのこと-フレネ教育者国際集会の思い出

エディア・サイドのこと…ジャパンフレネ代表 木幡 寛

今から26年前の1984年7月、ベルギーのルーバンで開催された<フレネ教育者国際集会>に初めて参加した。日本人の参加は1982年のトリノ集会(イタリア)以来2回目。

 

この時、話題になっていたのは『平和教育』・・・。北アフリカの教師は、パレスチナ難民の子ども達を自国に引き取り、その子ども達が描いた戦争の絵を提示し、戦争の現実をリアルに提示しなければならないと発言していた。それに対し、ヨーロッパの教師達は、子どもにとって必要なファンタスティックな世界や学力の必要性を論じていた。

 

堂々巡りの中、ぼくが発言した。東洋からの参加者がいきなり不可解な言語で話し始めたので、注目の的・・・。今考えると、とても青臭いのだが、「何故戦争が起きるのか、その原因を考える。身近な日常とは異なる世界があることを想像する」そんなことを話した記憶がある。

 『平和教育』の分科会が終了した後、浅黒い肌で小柄な女性がぼくにフランス語で話しかけてきた。フランス語が話せないぼくと日本語が理解できないその女性は、片言の英語でコミュニケーションした。遠い日本から来た教師が戦争の現実を理解してくれたことに感謝したと話してくれた。

 

彼女の名前は、エディア・サイド・・・。旧フランスの植民地だったチュニジア(北アフリカ、アルジェリアとリビアにはさまれている)の中部、スフールという町の近くで小学校の教師をしている20代の女性。まだまだ貧しいチュニジアの現実、パレスチナ難民の話、低レベルの識字率や就学率、しかし、子ども達の表情はとても明るい・・・、「それだけが救いよ」彼女は真剣に話してくれた。

 

1週間続く集会の中で同じチュニジアの教師を紹介してくれたり、一緒に食事やダンスをしたり・・・、それはそれは充実した時をすごした。ぼくにとって初めて知り合った異国の女性だった。 集会最後の日、ぼくは彼女に『雪』の写真集をプレゼントした。

「!!!私は一度も雪を見たことがない。こども達に雪の写真を見せて、何と説明しようか?機会があれば、一度日本に行ってみたい」

 

2年後フィンランドでの集会に参加した友人にエディア・サイドの消息を聞いた。彼女は結婚し一児の子どもに恵まれたとのこと・・・。その後、ブラジル・スェーデン・ポーランドでの集会に参加したがチュニジアからの参加者はいなかった。1998年日本で、念願の<フレネ教育者国際集会>を開催することができたが、この時もチュニジアからの参加者はいなかった。

 

エディアは、砂漠の満天の星のもと、今もぼくが手渡した写真集を見ているだろうか?遠い日本という国のことを子供達に話しているだろうか?

フレネ教育を考える時、いつもこの思い出が浮かんでくる・・・。


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