No.07 2009.11.04 「カレーと教育と」
先週、フレネの子がおいしそうにカレーを食べていたので、僕も今日は某有名カレーチェーンのカレーを持ち帰って食べてみたのですが...
すごく薄いんですね、コレが...
僕からしたらお湯の味しかしなかったんです..(一瞬クレームをつけようかと思ったくらいです)
こういう話題をふるとついつい「これだから東京人は濃い味で舌が...」であるとか「現代人の食教育では水のおいしさを味わえない」という類の話になりがちですが、ちょっと今回は別のことを思うわけです。
魚フライ付カレー(ご飯およそ300g)がおおよそ600円。という様に、物を数字へと直すのを「経済学的」という様な言い方をしたりするわけですが、この根底には「物には変らない価値がある」という様な考えがあるという指摘があります(例えば、日にちが経ってしまったからにはこのバナナは今までと同じ値段では売れない、という風に)。
これに関連して、大学の単位を、「半期で一律2単位にするのはどうなのか」という意見を持っている人がいる様です(内容によって単位数が変ったりしないものかと思う論理)。
確かに、いかに「1単位=何時間分」「1単位=何円分」という風に換算しても教育を「商品」として扱っていることに疑問を挟むことは、啓蒙という観点ではすばらしい発見でしょう。ただし、「数字への変換」が直ちに「経済学的」視点でのものの見方の結果というわけでもないでしょう。通信系の大学の単位取得の一部ではそういった
「学ぶ時間(一定)」=「単位(時間に比例して一定)」=商品としての値段
という様な制度をとらなければ、経営がしづらいような場合もあるでしょうが、それは、どの「制度」を適用するか、という話であり、経済学的視点で「教育」を商品として「本当に扱えるのか」という面からこの事態を観察しようとすれば、そんなことは難しいんですね。
僕に関して言えば、フレネの子と接していて、例えば何かもののうまい使い方なりを「教える」から、教えた数だけお小遣いがもらえたり(僕が)するわけでも、もらいたいと思ってやっているわけでもないわけです。
つまり、この制度に対して不満に似た意見はどうも成り立たない様に思います。小学校等のモンスターペアレントと呼ばれて一時期話題になった人たちの持つ論点も、おおよそ「教育」を通して何かを「得る」ことに「価値」的なものを見通している(代価として何かを支払っているのですよという感覚)ことが立脚点なのではないでしょうか。
塾に通わせるから(お金を払うから)受験に受から(保障された商品を提供してくれ)なければお金を返して欲しい、というような感覚とでも言いましょうか。気持ちは分からなくもないですが...
別の視点から言うならば「学ばない」から「教えない」ということになってしまいますが、何かの事物に対しているAさんが、その事物から何かを学ばないという保障もどこにもないわけです。その子の習熟度に合わせて教えたから「必ず」ということもなければ「絶対に無理」なこともないわけですね。重要なのはその子の個性(何を学びたいと思うか)です。
つまるところ、「教育」に関しては、チェーン店のカレーの様な不満の持ち方は、成り立ちそうで、成り立たないということですね。
ちなみに「カレーを作れる子」は算数もできるそうです!(笑)
