デイリーフレネ

NO 1550 新自由主義教育の行方 2009.10.27

このブログNO 1547で雑誌の取材を受けたことを報告し、政権が変わってハードをいじくっても現行のままのソフトでは、教育は変わらないことを述べた。その取材が『民主教育政策で公立は「私立化」する』アエラ09.11.2 No51(朝日新聞出版)のタイトルで記事になって店頭に並んでいる。

 

著作権の問題があるので、ぼくのコメントをそのままここに転載することはできないが、1時間以上の取材が、約200字に圧縮されている。今回の民主党のマニフェストの一つ、『公立学校に保護者、住民、教育専門家、有識者などが参画する学校理事会を置き学校運営の主権限を持たせる』ということが、1995年に発表された経済同友会の『合校論』を思い起こさせると木幡が述べていることになっている(それは、その通りなのだが、その後のコメントが掲載されていないのが残念だ)。

 

● 「公教育のスリム化」を目指す経済同友会の「合校論」

従来の学校教育の機能を次の三つに特化させる

※ 基礎教室

言語能力(母国語と英語)、論理的思考力(数学)、ナショナル・アイデンティティ(日本史)

※ 自由教室

自然科学、社会科学、芸術

※ 体験教室

行事(体育祭など)、課外活動(各種クラブ活動)、修学旅行など

上記の三つのうち「基礎教室」だけを学校(文部省と地方教育委員会)が分担し、残りの二つは、民間や地域のボランティアによって運営。

 

学校には、「できることとできないこと」があるので、学校の機能を圧縮させることには賛成だ。ただし、大前提がある。「自由教室」や「体験教室」を国家予算で確保し、子どもや保護者のニーズ、一人ひとりの学びのリズムに合わせて保障していくことだ。それが無ければ、家庭の経済状況に応じて教育格差が生じる。同時にこのブログで述べたように、ソフト(教材や授業法など)の柔軟化も計らなければならない。そのことがない、「学校理事会」制は、アメリカで破綻したチャータースクールの二の舞になるように思われるが、いかがなものでしょうか?

 

「合校論」も含め、学校選択の自由化、学校理事会などの新たな教育の流れは『新自由主義教育』と位置づけられている。しかし、教師の教材選択を規制し、一人ひとりの学びのリズムを保障しないソフトの中で、『新自由主義教育』がどうなっていくのか・・・?はなはだ疑問と思うのは、ぼく一人だろうか?


 

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