デイリーフレネ

NO 1566 失われた遊芸の世界 2009.03.10

先月のお散歩で行った佐倉の歴史民俗博物館・・・、そのコーナーで撮影禁止の場所があったことを記した。『エタ、ヒニン』と『アイヌ』のコーナーだ。
※ 差別用語ということだろうか『エタ、ヒニン』は漢字変換できない。


また、山村のコーナーでは、村の入り口に大男の藁人形が置いてあり、村に入るものを威圧していた。川端康成の『伊豆の踊り子』の中で、旅芸人などの入村を禁じた高札があったことを思い出し、調べて見た。


一校生の私と五人連れの旅芸人が連れ立って下田に向かうのだが、小説の後半に次のような文章がある。
『途中、ところどころの村の入り口に立札があった。―物乞い旅芸人、村に入るべからず』


関連し、ずいぶん前に買っておいた本を探して読んでみた。
『旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世』  沖浦和光(文春新書 2007.8.20 750円)


これによると江戸時代以来、一般ピープルは芸人になれなかった。芸人は、士農工商よりさらに身分が低く、特に大道芸・門付芸は『えた頭』→『ヒニン頭』→『乞胸太夫』という支配系列のネットワークの元、支配下に置かれていたという。


かつて出雲阿国が京で舞ったことが歌舞伎の始まり(?)と言われているが、歌舞伎役者も河原乞食と蔑まれていたという。


大道芸・門付芸が見られなくなって久しい。上記文献では、その理由を下記の四点に絞っている。
① 戦争による後継者の途絶
② 伝統的儀礼の解体
③ 新時代の芸にマッチしない
④ 伝統文化の崩壊&大道芸・門付芸での生活不能


ぼくが子どもの頃、まだ門付芸があった。御詠歌を歌うもの、虚無僧・・・。それらぼくの生まれた北海道の片田舎では『ホイト』と称していた。子どもの頃何の意味かわからなかったが、これは『寿歌(ほぎうた)を歌う人』がなまったのではないかと思う。祖母が幾許かのお米やお金を手渡していたことが記憶の片隅にある。


いろんな人が生きていてその存在を認め合っていた時代・・・、もうだれも知らない・・・。
ぼくが大道芸『がまの油売り』を最後に見たのは、1973年の浅草だった。

日々の状況や教育エッセイをJF代表・木幡が執筆。
メールマガジンでもお届けしています。
登録はこちらから

インデックス

NO 1566 失われた遊芸の世界 2009.03.10


週別アーカイブ

バックナンバー

バックナンバー 2004 2003 2002 2001 2000 1999