デイリーフレネ

NO1605 村田さんとぼくのこと(8) 2012.02.09

ミニ飛ぶ教室で野沢温泉スキー場に行っていました。久しぶりの更新です。

【1976年~1979年】 その2

公立小学校の三年間は、とにかく勉強した。各地の研究会参加はもちろんのこと、学級通信を週一から毎日へと発展させ、教科書は全く使わず、自主教材を納得いくまで研究した。三年間、こういう生活を続けていたら、今まで聴く側の人間だったぼくが話す側に回っていたことに気づいた。教員は、それほど勉強していないのだ。

 学校間交流

大学の後輩Y君とは互いに教員になってからも交流が続いた。二人で各駅停車に乗り、東京から大阪まで行き、そこから船に乗り、松山で行なわれていた数教協の全国大会に参加したりもした。

この時、ぼくは『探検シリーズ』と名うち、算数の授業はストーリーを追求しその過程で問題解決するスタイルを確立していた(しかし、これはハード面での改革にすぎない)。この方法を利用し、埼玉・山梨の県境にある『わり算山』で両県の小学生が出会う設定を行なった。学校間交流だ。

 

今でこそ学校間交流や体験学習は珍しくないが、35年前の保守的な地域には、様々な波紋をもたらした。1クラス40名の子ども達が山梨県に行く。この企画の責任はどこにあるのか?校長曰く、「これは学校として許可できない。できればやめてもらいたい」。そのうちにPTA会長まで出張ってきて、「こういう企画をやりたくても出来ない先生が多いんだから、そのことも考えて・・・」

 

ようするに、何かあった時の責任?長いものに巻かれて歩調を合わせろ。なあなあで行け。こんなところだろう。この局面で助けてくれたのは、周りの教員や組合ではなく、クラスの保護者達だった。

「この交流は学校の行事ではありません。親が責任を持って行なう交流です。木幡先生には、なんの責任もありません。全て親の責任で行ないます」

 

こう言われたら、ぐうの音も出てこない。学校間交流は、見事実現した。しかも、その年を含めて3年も・・・。一年目は岩槻から山梨六郷町へ。二年目は、その逆。三年目は、山梨県の清里で・・・。

 

 算数サークルと教研活動

教科書を使わずに自主教材を使う選択・・・、それは日々学習の毎日。公立小学校での三年間、『親と教師の算数教室』、それに教師のための『算数サークル』を毎月1回行い、月報を出していた。教科書を使わないのだから、こちらのポリシーや具体的方法を周りに理解してもらわなければならない。講師には、数教協に交渉し、故清宮一先生に来ていただいた。ぼくの数学的素地は、清宮先生に育てられたといっても過言ではない。算数教育のいろはから教室運営まで幅広く教えていただいた。

『数学教室』という雑誌に執筆するよう勧めてくれたのも清宮先生だった。

 

この辺が村田さんとは違う。村田さんは、一つの党派に偏ることを潔しとしない研究会(教育工房)を組織していたが、算数や科学の分野では構造や文脈がはっきりしない実践は、単なる思い付きや動機付けの域にとどまる可能性がある。昭和20年代から30年代にかけて行なわれた単元主義が「はいずりまわる子ども主義」と痛烈な批判を浴びたのもその系統性のなさであった。教科書をはじめ、様々な文献を考察した結果、何が正しいかを吟味していくことが重要であり、その結果、現時点では数学教育協議会の提唱している実践を凌ぐものはないと結論付けた。今もその考えは、変わらない。しかし、管理体制が強化されている現在の学校現場では、周りと歩調を合わせない実践は、孤立するだけではなく弾圧されるであろう。『孤立を恐れず連帯を求める』ことの困難性・・・。ぼくの実践の原動力は、『楽しさの追求』オンリーだったに違いない。つまらないことを教訓的に教えるのではなく、楽しいことの追求・・・、これは誰にもとめることはできない。

 

同時に山形から東京に出てきていた伊東信夫先生の『国語塾』(当時、高円寺のアパートで行なわれていた)にも欠かさず参加していた。

※ その伊東先生とは後年、同じ職場で働くことになる・・・・。

 

教員二年目、半ば強制的に組合の教文部長にさせられ、市教研の講演を仕切ることになる。『ひと』誌でのアルバイト時代お世話になった故遠山啓先生にお願いし、『点数序列のない教育』の演題で講演をしていただいた。体育館一杯の聴衆。市教組始まって以来の盛況だった。二年目は、伊東信夫先生の『国語教室』。これも大盛況だった。

 

教員2年目の1月末、沖縄県で行なわれた日教組全国教研第4分科会(算数・数学)に正会員(埼玉県代表)として参加した。選出の過程がシビアだった。完全投票制・・・。各地区から選出されてきたレポート提出者が1票を投じ、多数決で決める。現在、各地の教研の共同研究者として参加しているが、すべて持ちまわり・・・。全体のバランスを考え本部が決定するので、良いレポートであっても選出されない。教研がなまぬるくなっていく所以である。

 

若気のいたりか、「『面積屋敷のたんけん』のテーマソング『面積小僧の歌』を歌います!」など、全国の正会員の前で歌った。ここでぼくの算数の実践『探検方式』が初めて全国的に認知された。

その後、沖縄には仕事がらみで35年間通っている。いろいろ所で授業もさせていただいた。名護・コザ・北谷・恩納・那覇・平良・石垣・竹富・・・。当時、そんなことは夢想だにしていなかった・・・。

離れている村田さんとの距離は、まだ遠い・・・。

                                                     (続く)

日々の状況や教育エッセイをJF代表・木幡が執筆。
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