デイリーフレネ

NO1622 村田さんとぼくのこと(26) 2012.04.11

【1982年から1985年】 その7 『フレネ教育者国際集会』 1984 ルーバン(5)

ルーバンからパリ・・・、当時まだEUは成立していなかったが、各国の行き来はかなり自由だった。フランスからベルギーの国境もパスポートの提示は無かったと思う。しかし、物品の持込・持ち出しについては、密輸が絡むのかかなり厳しかった。ぼく達は、パリの日仏友好会館からビデオ放映のためのモニターを借りて持っていったのだが、ルーバン→ブリュッセルの車内で車掌から荷物の検査を受けた。ベルギー国内なので問題なかったのだが、国際列車に乗り換えたところ、同じ車掌が乗り込んで来て「おまえら密輸する気だな」と鉄道警察に通報され、いやはや逮捕・・・。フランス語が堪能な佐伯正子さんがあれこれ説明して事なきを得たのだが・・・。

 

この後、村田さんの奥さんがストックフォルムにやってくるので、「木幡、一緒に行かないか?」と誘われたが、一人、パリですごすことにした。団体行動をするより一人気ままに過ごすのがいい。人に教えを請うのもカルチャーセンターや研修会のようなところは、拒否してきた。この時期、村田さんは朝日カルチャーセンターで『教師のための学校』を定期的に開催し、誘われるのだが固辞した。村田さんをカリスマとして仰ぐのではなく、できるだけ離れてながらいつでも接近できる距離を保っていた。

※ 『教師のための学校』を聴講した教員が集まり、のちに『教育工房』が結成される。村田さんが亡くなってもその遺志を継ぎ、継続されるらしい。

 

パリに戻りタンパ地区にあるフレネ教育の教材を売っている店(今は消滅して、もう、ない)に行って、あれこれ物色してみたものの、あまり触手は動かなかった。フレネの計算カード、つまりハードを整えるのではなく、授業の内実を意味あるものにしたかったからだ。フレネ教育に関わる教員の多くは、内実を伴わない形式のみを整えようとするが、これはおかしい。気候や風土が違い、思想や宗教も違う。いわゆるヨーロッパ的なものをそのまま鵜呑みにするのではなく、日本的教育土壌の中でどう発酵させるのか・・・・、そのことをルーバン以来、ずっと考え実践してきた。

 

パリで一人あちこち行った。マルモッタンやゴヤ、ルーブルなどの美術館・・・。カフェでぼーっと、日がな一日・・・。エディア・サイドの住むチュニジュアに行こうと思い、エールフランスで航空券まで買ったのだが発熱し、やむなくキャンセル・・・。パリでの2週間は、あっという間に過ぎ去った。

                                                      (続く)

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