デイリーフレネ

NO1627 村田さんとぼくのこと(31 最終回) 2012.05 .24

最終回を書く段になって、筆が止まった。自由の森学園高等学校の校長職を辞し(1998年12月末に退職届を受理された)、フリースクールをオープンする際、村田さんと会い、いろいろアドヴァイスをいただいたが、1999年3月、突然村田さんと決別しなければならなくなった。この辺をどう書いたらいいのか、今でも迷っている。憶測は書けないので、事実のみを書いて村田さんとのお別れにしたい・・・。

 

【ジャパンフレネの設立まで】

1998年8月12日、理事長宛に退職届を送付したが、なかなか受理されなかった。退職の理由を明らかにされると困るという理事長判断だ。きちんと教職員の前でプライドが保てなくなった理由を話したかったが・・・。その年の12月末日付けで退職・・・。

 

その前からセレスタン・フレネのポリシーをベースにフリースクールを開設するために、場所や資金を算段していた。幸い支援してくれる方が現在の場所を格安で貸してくれるということで新宿にスペースを作ることにした。同時に多額の資金援助を申し出る支援者も現れ、数ヵ月後の1999年4月に『フリースクールジャパンフレネ』という名称でフリースクールを開設する運びとなった。

 

1998年11月から何度も村田さんに会い、次のことを確認した。

※ フリースクールの名前を『ジャパンフレネ』としたいが、問題はないか?

※ フレネ教育の紹介に自由の森学園で開催された1998年フレネ教育者集会の文章を使って構わないか?

「わっはっはー!木幡、おまえはずうずうしいなあ!」と笑いながら、村田さんは問題ないことを確認し、また、今後も応援してくれることを約束してくれた。1994年4月に『ジャパンフレネ』がオープンした後はそのスペースを、『現代学校運動JAPAN』の根拠地とすることや、村田さんが主宰していた『教育工房』の定例会もジャパンフレネで行ないたい旨確認した。ジャパンフレネの活動と同時に今後の村田さんの活動拠点も視野に入れたフリースクール活動をイメージしていた。ところが・・・。

 

ジャパンフレネのオープンも迫った1999年の春、現代学校運動JAPANの機関紙を通じ、村田さんがぼくを批判した。

曰く・・・、

※ 木幡が勝手な動きをしている。

※ フレネの名前を使うべきではない。

※ 国際集会のパンフレットから文章を無断引用している。

その他・・・・。

 

寝耳に水とはこのことだった。ぼくはきちんと日記をつけているので、村田さんとの会合を時系列に並べることができる。いつどこで村田さんと会い、どんな話をしたか・・・。村田さんはジャパンフレネの開設を快く承諾してくれたはずだ。ただ、一点、パンフレットの文章の引用文献名を入れていなかったのは、ぼくのミスなので心を尽くし、きちんと文章で謝罪した。しかし、反応はなかった。ぼくのミスもあったが、(村田さん、それは違うんじゃないですか・・・?)というぼくの訴えは伝わらなかった。

 

現代学校運動に関わる友人達も村田さんの真意を測りかねていた。ぼくは、いまだに村田さんの真意がわからない。いろいろと憶測できるが、それはやめておこう。確認事項を反故にしてまで、一刀両断にばっさり・・・。ぼくは、現代学校運動を脱退した・・・。

 

それから13年、村田さんとの直接の関わりはなかったが、村田さんがぼくの師匠であることに変わりはない。村田さんの死を聞き、再び村田さんの本を再読した。村田さんは、何を見ようとしていたのか?何を目指していたのだろうか?ただ、ぼくは村田さんに近づこうとする時期を越え、村田さんの見ていたものを見ようとする方向に実践的にシフト変更した。そのことは村田栄一をカリスマとして拝むのではなく、村田栄一が見ていたものを探し続け、「遠くまで行くんだ」という決意にもつながるだろう。

 

長々とぐだぐだと書いてしまった。行く先は未知だ・・・。

遠くまで行くんだ・・・。

                                                         (終)

 

 

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