デイリーフレネ

NO1610 村田さんとぼくのこと(13) 2012.02.28

【1979~1982】その1

● 公立小から明星学園へ

1979年、3月も押し迫ったある日のこと・・・、最もやりたくない公的事務―指導要録の記入をしていた。当時、要録は非公開。こんなものどうすんだい・・・。こういう仕事は、いい加減にすることにしている。いい加減に相対評価を書き、いい加減に所見を書く。ぼくの場合、例えば「元気」「まじめ」「明るい」「仲良し」「誠実」などのキーワードを基にして、五つぐらいの文章を作っておき、順番にそれを書いていくだけである。だから、この手の仕事は、他の教員の数倍も速い。

 

それにしてもつまらない仕事だ。春休みの職員室で仕事をしていると、事務室から「木幡先生、電話ですよ」の連絡。受話器を耳にあてると、「木幡さん、明星学園の松井です」

ん?松井さんから・・・。何の電話だろう?教員生活3年目を終了するところだったが、算数を中心に各種研究会に出ていたので松井さんにも懇意にしていただいていた。

 

※ 松井幹夫:数学教育協議会創成期からのメンバーで偉大な実践家。一緒に自由の森学園の創立に関わることになる。自由の森学園教頭、学園長。2012年2月4日、逝去。『ひと』誌のアルバイトをしていた時、松井さんの原稿を取りに明星学園まで行ったことがある。

たくさんのことを学ばせていただいた。私が観た多数の授業の中で感動して涙したのは、松井さんの授業1回限り・・・。教材を子どもの前に強引に持って行き、あの手この手で事件を巻き起こす『外連(けれん)』と言われたぼくの授業の対極にある授業を展開した。つまり、教材を前に子どもととつとつと語り、子どものペースで行なう授業だった。

映画で言うなら、ぼくの授業は、スピルバーグ。松井さんの授業は、小津安二郎・・・。

村田さんに続き、松井さんも逝った・・・。

 

「木幡さん、四月から明星学園に来てもらえませんか?一緒に仕事をしましょう」

(えええええーーー!)

明星学園といえば、民間教育運動のメッカ。公開研究会には全国から多数の教員が集まってくる。

「松井さん、しばらく時間をいただけませんか?」

「いいですよ。三分だけ待ちます」

「・・・・・・、ちょちょちょっと待ってください」

「今、明星の合宿研究会で千倉の寮に来ているんです。四月からの人事を今決めなきゃいけないんですよ。遠山先生も来ていらして『木幡君なら大丈夫だろう』と推薦しているんですが・・・。」

「今、すぐに返事ですか?」

「そうです」

ええい!ままよ!遠山先生が推薦しているなら・・・。

「わかりました。行きます」

「ありがとうございます。そう言ってくれると思っていました。詳細は、後日、連絡します」

 

いやはや、あっという間、電光石火の一本釣り・・・。

それはいいが、三月も残り数日・・・。すでに人事も決まっていることだろう・・・。とにかく、その足で校長に伝えに行った。

(急に言われても困る)といわれるだろうなあ・・・。

「実は、退職することになりました。明星学園で仕事をします」

「あ、そう」

この一言だけ。さんざん好き勝手なことをやっていたから、目の上のたんこぶだったに違いない。あっさりと退職を受理されてしまった。村田さんもこの翌年退職するのだが、その時はやはりこんな感じだったのかしら・・・。翌日の職員会議で「木幡先生が退職なされます」の校長報告に周りの教員は、「えっ!」と呆然・愕然・驚愕の表情・・・。かくして、ぼくの公立時代は、春風と共に去っていった・・・。

                                              (続く)

 

 

 

 

 

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