NO 1637 ぼくとお酒とワタルちゃん―フォークシンガー高田渡との26年(2) 2012.10.12
Part 1 1979~1982
歩き疲れては 夜空と陸との
隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
所かまわず寝たのです
歩き 疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです
(『生活の柄』詩 山之口 獏 曲 高田 渡)
1972年秋、大学をドロップアウトしたぼくは、三重県伊賀上野近辺の共同体にいた。
夜更け、誰かがギターを爪弾きながら『生活の柄』を歌っている。いい曲だなあ・・・。草に埋もれて眠れないぼく・・・、秋は浮浪者のままでは眠れないんだ。詩の中のぼくと当時のぼくがタイアップされ、妙に感傷的になった覚えがある。
それから7年、人の人生はわからないもので、ぼくは明星学園の教員になり、同時に一世風靡した月刊教育誌『ひと』の編集委員も兼ねていた。
※『ひと』1973年創刊の月刊教育誌。数学者遠山啓が編集代表で1970年代~80年代の教育ステージをリードした。ぼくは1979年~1987年まで編集委員を務めた。
企画を一つ任された時、なぜか高田渡のことを思い出し、彼のインタビュー記事を書くことに・・・。どこをどう探し、どうコンタクトしたのか全く覚えていないのだが、1979年の秋から暮れにかけて、吉祥寺はハモニカ横丁の飲み屋『笹の葉』で酒を酌み交わしながら話を聞くことができた。ぼくも高田渡も29歳・・・。
※このインタビュー記事は『やさしさを歌にこめて―あるフォーク・シンガーの歌と人生』と題し、『ひと』第89号(1980年4月号)に掲載された。
それまでのぼくは、あまり酒を嗜まなかったのだが、明星学園の授業研(週1回有志により、酒を酌み交わしながら行われ、保健室に寝泊まりしていた)、そして高田渡との出会いにより、酒の頻度は格段に高くなっていった。
「文選工をやっていたときに、労働学校みたいのがあって、そこでは、なぜ数学が必要な
のかとか、式が必要なのかという理由を教えてもらいましたね。(中略)特に質と量のちがいについて教えてくれたことも印象に残ってますね。「りんご3つとみかん4つでいくつか
というような問題・・・。普通なら7つというでしょう。でもちがうんだよね。数として
はたせるけど、りんごとみかんはちがうものでしょう。
(『やさしさを歌に込めて』 高田渡『ひと』89号より)
飲みながら話を聞いているのだが、彼の飲み方がすごい。嗜みを超えて、ただひたす
ら酔うことだけを目指しているような飲み方なのだ。笹の葉自体7~8人程度座れるようなカウンターだけの店なので、満席の時は、ビール箱と平板を持ち出し、路上で飲んでいた。一合枡の角に塩を乗せ、一気に一合キューっと飲み干し、塩をなめる。そして、「同じの、もう一杯!」
彼はステージで演奏の途中、寝てしまったという伝説があるが、別の局面でも同じよう
なことが・・・。ハモニカ横丁で飲んだ後、麻雀に誘われ、一緒に卓を囲んだのだが・・・。
牌を持ったまま動かなくなってしまった。寝息をたてて熟睡・・・。
明星学園の小学生向けにライブをお願いした時も、近くの蕎麦屋で一杯引っ掛けてきていたなあ。
「高田さんって、甘い匂いがする人だった」と、子どもの感想文・・・。酒臭いだけだっ
て・・・。
1970年代の中盤から、1980年中盤にかけては、渡ちゃんがあまり表に出て来なかった時代だった。ひたすら地方のライブハウスを回っていたが、自分の歌のスタイル(やや斜に構えながら、庶民の目で世の中を見渡し、岡林信康や高石ともやのような強烈さはないが、ひとりひとりの中に屈折しているものをぼそぼそと吐き出す)を崩すことはなかった。
(続く)