デイリーフレネ

NO 1604 村田さんとぼくのこと(7) 2012.02.01

【1976年~1979年】 その1

● 市販テストと学級信通

1976年4月埼玉県岩槻市(現さいたま市岩槻区)の新設公立小学校に赴任。ここは、埼玉の『教育の谷間』といわれる保守的な地区だった。4月1日、新設校に教員の面々が集まる。新任は、ぼくも含めて4人・・・。4年1組の担任。驚くことの連続・・・。

 

初めての学年会、市販テストがすでに購入されていた。唖然・・・。市販テストに評価を委ねるという事は、市販テストの望む学力観に授業のレベルを合わせることになる。大学時代、全くといっていいほど授業に出ていなかったが、村田さんの著書、そして教育誌『ひと』を読んでいたので、市販テストの弊害は理解していた。

 

「どうしても使わなければいけないんですか?」「もう、1学期分、注文しちゃったからねえ・・・」

答えにならない答え・・・。

「じゃあ、1学期だけ使ってみて、使えなければ断っても構いませんか?」「・・・」

しぶしぶ了解され、結果、ぼくのクラスは2学期から市販テストは使わないことになった。市販テストは「やりたければやってきて」と家での課題に・・・。保護者には、市販テストを使わない理由をきちんと伝え、了解を得た。

 

後述するが、教科書は殆ど使わないので、その理由も保護者に伝えなければならない。村田さんの『学級通信ガリバー』をベースに授業の内容・子どもの作品・教育問題など週1回ガリ版数枚の学級通信を出すことにした。題して『風の子集団』。連休明けの5月から2年間続いた。内容も子どもの様子が中心から授業内容へと変化していった。学年4クラス、学校全体で24クラス、学級通信を出す教員は誰もいなかった。

 

学級通信ができたら、真っ先に校長に手渡した。

「校長先生!今週号できました!いいでしょう!」

「まあ・・・、出せない人もいるからねえ・・・。周りの先生のことも考えてね」

表立って禁止にはできない。だからこそ最初に校長に手渡し、既成事実を・・・、という作戦。

しかし、「印刷室のわら半紙を特定の先生が大量に使っている。これは、平等ではない。みんな同じ枚数使うことにして下さい」

子どもの様子や授業内容を公開し、保護者共々学校空間、開かれた学校を目指していたが、そうは思わない教員が大多数ということ・・・。低いレベルに合わせろということ・・・。

かくしてわら半紙を自由に使えなくなり、ぼくは身銭を切って学級通信を出していた。保護者会でそのことを伝えたら、保護者、愕然・・・。「先生、保護者で相談し紙代を集めることにしました。紙のことは気になさらないで下さい」

 

公立学校時代は、村田さんに近づくことだけ考えていた。村田さんの見ていた先までは、まだ見ることができていなかった。公立学校3年目から、学級通信のスタイルを全く変えた。授業実践中心・・・、授業が子どもとの関係を変えるという視点で勝負していくことにした。

                                                        (続く)

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NO 1604 村田さんとぼくのこと(7) 2012.02.01

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