NO 1603 村田さんとぼくのこと(6) 2012.01.31
『飛びだせチビッコ』と『学級通信ガリバー』・・・、同じ内容だが後者の方が格段にいい。丁寧に書かれたガリ版刷り・・・、村田さんの暖かさが伝わってくる。肉声が聞こえる。これをガリガリ書いていた時の村田さんのニヤニヤしている姿が目に浮かぶ・・・。年間50号の通信・・・、各号の冒頭に掲げられた詩もセレクトされている。後年、公立小学校に勤務していた二年間、このスタイルを模倣させてもらった。
1974年までの著作の中で『学級通信ガリバー』だけが極めて実践的である。これについて教育評論家の阿部進は、次のように書いている。
※ 『飛びだせチビッコ』の表紙カバーの裏に書かれている。
『ボクはこの本を読み終わって「ウウンー」とうなってしまった。ボクの知っている村田クンというのは、教育制度や組合や若い教師のことに熱中してて、その合い間に子どもも教えているコトがある・・・・・・という印象が強かった。ところがどうしてとんでもない。モーレツで、そしてソフトに冷静な行動的な子どもをじっくり育てあげつつあることにおどろかされた。まわりの「教育者を自認する人々」が小さく小さく見える本である』
今ここで実践の質云々を問うことは意味が無い。重要なのは、『学級通信ガリバー』に感動し触発され、村田栄一に近づこうとするだけでなく、 村田栄一が見ているものを見ようとする若い教員が確かにいたということだ。実践の広がりを量としてとらえるのではなく、ある時代一部の教員だけであったとしても深く静かに根付いていった実践が確かにあったということだ。
ここで再び、ぼくのことに戻ろう・・・。
【1985年~86年】
大学4年になったが、授業は殆ど出ていなかった。生活のためアルバイトを余儀なくされ、週四日のビル清掃、家庭教師、その他・・・。大学4年まで落とし続けていたオーラルイングリッシュの単位、きちんとアルバイトの理由を言い、出席の代わりにレポートで単位をいただいた。アメリカ人の先生だった。いまだに、「卒業できない!」と夢に見ることがある。
故郷の小学校での教育実習でも算数主任とやりあった。5年生のクラスに入り、研究授業のテーマは『三角形の求積』。当時の教科書は、長方形・正方形の求積の後、三角形→平行四辺形という流れ・・・。これは、不自然・・・。そこで担任に了解を取り、平行四辺形→三角形という流れに変更し、指導法も教科書を度外視した当時斬新な方法を取った。
授業後の研究会、「木幡君の授業は、方法も流れも教科書とは違う。それは、おかしい」と算数主任。「いや、それは教科書がおかしいんですよ」とうとうと自説を披露したものだから、向こうもだまっちゃいない。ディベートになってしまった。「主任、あなたの考えはまちがっています」
「まあまあまあまあ・・・」と周りの教員が互いをなだめてお終いになった。研究会終了後、一席設けてくれ、飲めや歌えや・・・。二次会まで・・・。まだ、よき時代であった。
※ ぼくの主張が正しかったことは、後に証明される。ぼくら教育団体の主張が通り、教科書の流れは、平行四辺形→三角形に修正された。
教員採用試験・・・、これはツイッターでもつぶやいたが、二ヶ月前から過去問に取り組み、東京・埼玉・北海道を受験。結果、全て合格。しかし、冷や冷やもの・・・。
北海道のピアノ実技で五曲の中から一曲指定されるところを「ぼく、雪やこんこ、得意なんです。ぜひ、弾かせて下さい」と逆指定。それしか練習していなかったのだ。東京の清瀬の面接では、教員住宅がないということで、「それなら辞退します」と採用をけった。埼玉岩槻市の面接でも翌年度から実施される主任制を真っ向から批判・・・。もう、だめだね・・・、とあきらめていたが、どういうわけか合格してしまった。1976年3月31日のことである。
その時、思っていたことはただ一つ・・・、『学級通信』を作るぞ!
(続く)