デイリーフレネ

NO 1601 村田さんとぼくのこと(4) 2012.01.26

1974年~1976年までのことを書いてみよう。

● 1974年~75年

浅草合羽橋の紙問屋で働いていたが、身体を壊し1974年の1月1日から2ヵ月半入院(十二指腸潰瘍)。このままではいけないと再び人生のことを考えた。一度は断念した教育について考えてみよう・・・。復学できないかと、半ばあきらめの気持ちもあったが、だめもとで大学の学生課に連絡・・・。

 

数日後、学生課の女子職員から直接電話があった。「木幡さん、頑張って下さい。応援しています。必ず、教授面接にもっていきますから・・・」なんで、直接激励の電話があったのか・・・?思い当たることは、ただ一つ・・・。69年から70年にかけて大暴れしていたので、面がわれていたということ・・・。やがて、教授面接。かっての指導教授曰く、「木幡君、まじめにやる気になったの?だったら戻ってらっしゃい」かくして、大学に学士編入・・・。あの女子職員がいなかったら・・・。それにしてものどかな時代だった。

 

大学には週三日通い、後の四日はアルバイト。なにせ、勝手な生き方をしていたので勘当同然。

学費も生活費も自分で稼がなければならない。この時、大きな出会いが二つあった。

まだ、創刊間もない教育誌『ひと』編集代表遠山啓(太郎次郎社)のアルバイトと第1号として半年働いた。

この時の経験が一生を決めた。大師匠遠山啓(東工大名誉教授・数教協委員長)との出会いはもちろん、水道方式の神様岡田進、仮説実験授業の板倉聖宣、平林浩。社会科の授業を作る会白井春夫、綴り方から国語教育の遠藤豊吉、伊東信夫、井の中から大海を撃つと豪語していた徳島の新居信正・・・、ここには書ききれないほど・・・。みんな若かった!青春は年齢で語るものではないことを痛感した。彼らが関わっている教育、そして教育実践、つまり教員っていい仕事かもしれないと思った。

 

※ 教育誌『ひと』に関しては、こちら http://www.tarojiro.co.jp/overview/history.html

教員になるきっかけは、このとき作られた。

 

大学に行ってもまじめに授業に出ていたわけではない。出席を取る授業以外はほとんど出ず、麻雀で小遣い稼ぎをする典型的なぐうたら学生だった。ゼミでは「戦後に民主主義なんてあったのか!」と吠えまくり、ゼミ壊し・・・。編入したクラスの学生に、先輩ということで好意的に見られていたある日・・・、「先輩!こいつも同じクラスなんですよ」と紹介されたのが、以来40年の長い付き合いになるY君。彼の抱えていた本に目が行った・・・。「君、村田栄一の本を読むの?」Y君が抱えていた本こそ『戦後教育論』(社会評論社)だった。再び、村田栄一のことが脳裏に浮かんだ。

Y君とは教員になってから学校間交流をしたり、一緒に研究したり・・・、一生の友となった。彼は今、学校長。授業研究に取り組む稀有な学校長だ。心から感謝している。そしてきっかけとなった村田さんにも感謝している。

                                                        (続く)

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