デイリーフレネ

NO1617村田さんとぼくのこと(21) 2012.03.22

前回、村田さんとさんざん飲み明かした事を書いたが、こんなこともあった。

 

師走、ひと誌を出していた太郎次郎社での会(講座『教室をビックリ箱に!』だったと思う)の後、忘年会。本郷のちゃんこ『浅瀬川』(大鵬の連勝を止めた大阪出身の元幕内浅瀬川が経営)でしこたま飲んで・・・、二次会で潰れてしまった。 寒くて気がつけば、本郷菊坂あたりの路上で寝ていた。翌日、仲間に聞いたところ、「木幡さん路上で寝ちゃったから起こそうと思ったら、村田さんが『ほっとけほっとけ、寒くて目が覚めるだろう。覚めなかったらそれも人生。車に頭を引かれたら死んじゃうから、頭を歩道側に向けておけよ』と言って、放置して帰ったのよ・・・。私、心配だから後で見に行ったら、木幡さんもういなかったから・・・」

なんと!

 

【1982年から1985年】 その2 

● 閑話休題―村田栄一と無着成恭

この時期は、ぼくにとっていろいろな意味で激動だった。明星学園内部では、内部進学問題(高校側が内部進学を規制。内部進学テストを行い、成績不良者を足切り)で大きな対立が起きた。また校長遠藤豊&教頭無着成恭体制に対する不満(公開研究会をしばし中断し、内部の実践を重視すべきという意見。同時に両有名人に対する妬みのような感情論もあったと思う。同時に政治的問題なども絡み、教頭選挙ではたった1票差で無着さんが選出されている)もあり、1984年の公開研究会は中止になった。しかし、一部有志で部分公開を行なった(これまた、事前確認が取れていないと問題になり、スポークスマンだったぼくが、矢面に立たされた)。

 

太郎次郎社でアルバイトをしていた時、松井幹夫さん(数教協の実践家)の原稿を取りに明星学園に行ったことがある。その時、職員室で弁当を食べている無着さんがいて、腰の手ぬぐいが妙に印象的だった。ラジオ番組『こども電話相談室』出演のため、毎週定期的に中抜けする無着さんに批判もあったが、人間的にはいい人だった。

 

捨てずに取ってある雑誌『望星』1971.2(東海大学出版会)で、この二人と村松喬(毎日新聞『教育の森』で著名な教育評論家)が鼎談を行なっている。二人の差異が明確に出ている。

※ この頃の望星は素晴らしい教育雑誌だった。今の望星とは、性格がまるで違う。

 

また、『学級通信ガリバー』村田栄一(社会評論社)の中でも村田さんが科学主義の無着成恭を批判している。解説を書いた遠藤豊吉(教育評論家 当時武蔵野市立井の頭小教諭)もこの点に触れている。詳細は『ガリバー』を参照して下さい(『無援の前線』村田栄一 社会評論社も参照)。ぼくは、この二人に関わった稀有な教師の一人だった。あえて言わせて頂ければ、『科学的に検証された教材VS学校という場の自己否定(反学校)』をいくら擦り合わせても溝が生まれるばかりだ。この二極対立構造の中から新しいものを生み出す。つまり、村田+無着から新たなものを模索していく方向性が重要である。水と油から何を生み出すか?実は、水と油という相容れぬものではなかったのではないか?このことは、後日、述べてみたい。

 

1984年、無着さんが「木幡君、週に1時間、木幡君のクラスで詩の授業をやらせてくれないか?」ということで、快諾した。それは、科学的?分析で詩を論ずる(例えば、安西冬衛の『てふてふが・・・』など)ような授業でなく、孫とジジの交換日記のような授業だった。子どもが自由に詩を書く。それについて感想を書いて返す。時には、添削する。この辺が無着さんの真骨頂だと思う。この1年間の授業が『やまびこ学校』から続いてきた無着成恭最後の授業となった。

 

無着さんにもよく飲みに連れていってもらった。

「木幡君、依田君!飲みに行くぞ!ちょっと待って・・・。」

何するかと思ったら、明星学園創設者赤井米吉像の前にある小さな池で立小便・・・。無着さんらしい・・・。

※ 依田節夫。ぼくと同じ年、1949年生まれ。宮城教育大中森孜郎.門下生。民舞・太鼓の実践で知られる。自由の森学園の創設に関わり、ぼくと同時に明星から自由の森学園へ。40代中盤から50歳頃までほぼ同時期、木幡が高等学校校長、依田節夫が中学校校長。2003年54歳で急逝。

 

飲みに連れて行ってもらい、いろいろな話を聞いた。一番印象に残っているのは、これだな・・・。

「木幡君、人間は生まれた時には産湯につけてもらい、死んだ時には棺桶に入れてもらう。生まれてから死ぬまで迷惑をかけ続けるのが人間なんだ。だから、他人に迷惑をかけないようにするのではなく、他人の迷惑を引き受けるようにならなければならない。今日の飲み代は、俺が出す。君達が後何年かして若いやつと飲んだ時、ご馳走してあげなさい」

やはり、無着成恭は坊主なのだ・・・。以来、ぼくはその教えを守っている。

 

こんな中、村田さんから「木幡君、1984年のフレネ教育者国際集会に行ってみないか?」と誘いがあった。次回はいよいよフレネ教育者国際集会について書く・・・。

                                                    (続く)

 

 

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