NO1624 村田さんとぼくのこと(28) 2012.04.19
長々と書いてきましたが、30回をめどにこの稿を終了する予定です。1985年の自由の森学園開校~1999年退職、そしてジャパンフレネのオープンまでを3回にわけて書きます。
【1985年から1999年】(1) 自由の森学園とフレネ教育国際集会(1)
明星学園の内部進学問題に端を発し、新たな学校づくりを構想することになった。以来、2年で開校の運びとなる。寄付証明を集めて何とか学校法人認可をとったが、寄付が集まらないまま校舎の建設、そして開校・・・。以来、自由の森学園の財政は停滞のまま、毎年のように理事長が変わる。様々な問題も勃発したが、さしさわりがあるので、ここには書かないようにする。
開校の1985年、ぼくは中学校1年1組の担任。太郎次郎社の月刊教育誌『ひと』に『自由の森学園中学校1年1組1週間』という原稿を掲載したり、『押してもだめなら引いてみな―球面の幾何の授業』など明星に引き続き、精力的に原稿を書いていた。初年度の公開研では全国各地から数千名の参観者が訪れ、ぼくの授業も押すな押すなの人だかり。湘南の元祖『楽しいだけでいい派』数学教師矢定洋一郎が授業してくれたり・・・。開校数年間は、順風万帆の自由の森学園だった。
村田さんとは相変わらずつるんで飲んでいた。朝日カルチャーセンター講座『教師のための学校』に集まった教師を中心に、村田さんは『教育工房』という研究会を作る。
そのポリシーは次のとおり。
① 一定の党派や民間研究団体に組しない。
② カリスマを作らない。
③ 持続する。
ぼくは、相変わらずつかず離れず客観的に村田さんを見ていた。教育工房にも参加していたが、月2回の例会にいつも出ていたわけではない。精神的に疲れたり、学校空間が嫌になった時など、村田さんの顔を見に行っていたように思う。この研究会のすごいところは、とにかく現在まで月2回の例会を持続したこと。たくさんのブックレットも出した。しかし、弱点もある。例えば民間教育団体の実践をベースにしないということは、その実践構造も自ら作らなければならないということになる。そうでなければ、実践はただの思いつき・・・。このことについて、深夜の新宿で村田さんに聞いてみたことがある。
「村田さん、工房に集まる連中で授業の構造や文脈が創れるんですか?」
「・・・無理だな・・・」
「・・・・・・」
重い沈黙が続いた。
「方法の問題ではなく、センスの問題だ・・・」
子どもの発言を臨機応変に捉え、それをフィードバックしていく力量は、知識の量や技術の問題ではなくセンスの問題だと言うのだ。これに関しては、同感。高座にあがり、客の顔を見て「では一席」。そしてまた客の反応を見て枕を返す。これは一見すると技のようにも見えるが、技芸に昇華されているセンスの問題である。談志の落語を聴いているとよくわかる。村田さんの悲しそうな表情が忘れられない。カリスマを作らないといっても、会の発足時、村田さんはすでに充分カリスマであったように思う。カリスマはいつも頂上であって、その先を見せない。だからカリスマを作らないということ=村田さんの見ている先を見通すという作業が必要なのだ。これが、並みの人間にはなかなかできない。
西新宿の飲み屋を会場に研究会を行なっていた。オープン前の飲み屋で研究会を行い、そのまま飲み会・・・。ぼくは、飲み会のほうにだけ顔を出していた。そして、ずるずると朝まで村田さんと・・・。
そういえば、この飲み屋には保坂展人君(世田谷区長 元衆議院議員)もよく来ていて、何度か飲んだ。彼とは、1970年の日比谷野音以来の知り合いで(内申書裁判原告)、ジャパンフレネををオープンした時、一緒にシンポジュウムなんかもやったなあ・・・。
1986年から1998年まで7回のフレネ教育者国際集会が世界各地で行なわれた。ぼくは、フロリアナポリス(ブラジル1988 )、ヘマーバン(スェーデン1994)、クラクフ(ポーランド1996)、飯能(自由の森学園 日本1998年)の集会に参加した。村田さんは、フロリアナポリスを除いて全て参加している。フロリアナポリス以降は、ツアーを組んで開催地近辺の旅行も企画していた。また、3月の春休みにも『飛ぶ教室』と称し、フランスやイタリアのフレネ学校の参観ツアーも企画していた。ぼくは、いずれのツアーにも参加していない。団体旅行が苦手なのと村田さんの価値観に乗っかるのを拒否していたのだろう。同時に船に船頭は二人要らないという思いもあった。尊敬と遠慮が入り混じった微妙な感覚の時期だった・・・。次回は、それぞれの集会での感想を書いてみよう。
(続く)